2025 10,13 06:38 |
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2012 02,24 15:28 |
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関東オープンにて採取した様々なデータに基づき、我らがドリンドル主将がプラス要素のプレーとマイナス要素のプレーを数値化しなんやらかんやらの計算式をつくりあげ、チームへの貢献度をポイントで表したとのこと。 向かい風での大砲モードを求められたランボーは必然的にTOが増えてしまったので、ちょっとかわいそうだなぁ。
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2012 02,16 09:30 |
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東京都立聖オゲレツ学園エロス倶楽部ベジグリフォンズの2012関東オープンの個人成績が集計されました。
年間集計のトップには、キャプテンドリンボよりアレが送られるとのことです。所属選手の皆さんはアレの獲得のためがんばってください。
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2012 02,14 15:53 |
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2012年2月の第二週に関東オープンが熊谷にて開催され、我らが堂道ベッカムブラピデカプリオキャプテン率いるベジも出場した。0℃に近い気温で寒風吹き荒ぶグラウンドでのアルティはそれはそれは過酷なものであった。しかし去年一昨年はこれに加え雪まで降っていたとのことなので、それに比べればまだましだったのかもしれない。
凍えるような寒さの中でのアルティで普段以上に体力を消耗した我々は、一刻も早く暖をとりたいとホテルへ駆け込んだ。今回の宿は普通のビジネスホテルであったため大部屋で雑魚寝ではなく、2~3人部屋が何部屋も割り当てられていた。 と、ロビーにてキャプテンより部屋割りの決め方が発表された。 ドリンボ:「部屋割りは背番号順で埋めていきまーす。」 それはいけない。 わしの危険受信アンテナが激しく電波をキャッチした。 ベジの背番号を順に並べてゆくと、
00 ドリンボ |
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2012 02,01 12:34 |
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ベッカムとベジ(奇跡!)に、彗星の如く1人強烈なキャラクターが加入した。
その男の名は、 ちゃんたま その出会いは突然であった。きっかけは、元闘将ハルナからの1通のメールであった。 ハルナ:「私の知り合いでたまちゃんっていう人がいるんですけど、ベッカムに誘ってもらえませんか?なんでも、アメリカでアルティやってたらしいですよ~。」 正直その時点ではわしは何とも思っていなかった。アメリカのアルティ人口は日本とは比べものにならない規模なので、実力はホントにピンキリである。それは2011年に敢行したサンフランシスコ修行の際に肌で感じた。本場アメリカといえど、ローカルでやっている人はお世辞にもうまいと言えない人がいっぱいいた。 2011年のある日のベッカム練にて、遂にちゃんたまと初めて対面した。わしは見逃さなかった。彼の着るpatagoniaのウェアには、「UCSB」と書かれていた。 UCSBだと!????????? UCSBとは、University of California Santa Barbaraのことだが、アメリカ屈指の強豪校である。一世代前にUPA(現USA Ultimate)で優勝していたCondorsや、2008年あたりに同じくUPAで優勝したJamに所属する多くの選手がUCSB出身者である。すなわちアメリカアルティ界でも相当上のクラスにいらっしゃったということになる。しかも話を聞くとUCSB BlacktideのAチームのオフェンスセットに入っていたとのこと。 そんなお方を目の前に迎え、激安お下劣ドブメッターでしかないわしは足がガクプルした。 出会った瞬間は尊敬の眼差しMAXであったが、それもすぐに薄れていった。ちゃんたまは、ドリンボ、たくちゃんら変人レジェンドに引けをとらない妙な男であることがすぐに露になっていった。 アメリカ歴の長い帰国子女の聴く音楽といえば、わしの周りではたいていゴリゴリのHIPHOPやR&Bなどという印象であったが、彼は全力でK-POPに傾倒している。K-POPの流れるお店に入ると、たいていのBGMのアーティストを言い当ててくる。日本では全く知られていないグループとか人の名前とかがポンポン出してきて、限りなく鬱陶しいドヤ顔を決めてくる。そして、暇さえあればK-POPダンスの振り付けを炸裂させており、そんな姿は頻繁に目撃される。ここまでのK-POP野郎はわしの周りには彼しかいない。 そして彼は常にアクティビティを求める。特に卓球やテニスが好きらしく、クソ弱いくせに果敢にもわしに勝負を挑んでくる。謎のK-POPステップをふみながらストロークしてくるが、わしには全く通用しない。わしに勝てるようになりたいためか、これからテニススクールに通うという謎の発言まで飛び出している。わしを一歩でも動かすことができるようなショットが打てるようになるか要注目である。 そんな訳のわからない彼であるが、本業(?)のアルティについてはあまり多くを語らない。ただ、わしが「ブランドンスティーツとかってどうだったん??」とか「リージョナルスのファイナルでMamabirdと戦ってどうだった?」とか聞くと、「彼はうまいっていうか、ガシガシの肉体派だったね」とか「オフェンスは普通に通用したよ」とか、彼にしてはあまり誇張の少ない答えが返ってくるところをみると、こればかしはホンモノなのだろう。ベッカムはおろか、ベジでも最も潜在能力が高いことは間違い無さそうであるとふんでいる。(この前の練習でもシュートの競り合いでクソ鬱陶しいK-POPキャッチを決められてorz) りきしの業務日誌に取り上げられる個人としては最速記録と言っても過言でない早さであるが、わしの中で今最もホットな男、ちゃんたまにこれからも期待大である。 |
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2012 01,16 11:38 |
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わしの父親の名はヨシノブという。歳はだいたい55歳で、わしの性格はだいぶO型の父から受け継いでいるところが多いと思われる。しかしわしの目から見ても、未だに妙な行動をとることが多い。
北海道旭川市出身のヨシノブは、高校までは北海道に住んでおり、ギャグで受けた某義塾にまさかの合格。それを機に上京。某義塾では体育会ゴルフ部に所属し、当時の写真を見ると学ランに坊主にティアードロップのグラサンという鬼畜のような格好をしていたのだが、そんな姿に誇りを持ちドヤ顔でキャンパスを闊歩していたことは容易に想像される。「ゴルフ部時代の思い出は?」とたずねると、試合の帰りの車にて、ドライバーが食あたりにより車内でウン○コを漏らしてしまい、みんなで「車糞(シャグソ)、車糞!!」と言ってゲラゲラ笑ったこととのことで、ゴルフ部時代のスコアなどは一切不明である。 だいぶリーマン歴の長くなってきているヨシノブだが、55歳になっても遊ぶ心を忘れない。ある日突然買って帰ってきたプレステの「パイロットになろう」というゲームを業務からの帰宅後に毎日3時間以上プレイして、あまりに集中して画面を凝視したために目から出血させてみたり、ある日突然ペットボトルロケットを作成し近所の小学校の校庭で発射させてみたり、突然謎のフィギュアをコレクションし始めたり、その一貫性の無い趣味は途絶えることが無い。 そんなヨシノブは最近専らランニングにはまっており、東京マラソンを筆頭にフルマラソンやハーフマラソンにチャレンジしている。ヨシノブは普通の形のランニングウェアをアンダーアーマーのコンプレッションタイプのようにピチピチに着ることが最先端のファッションだと勘違いしているらしく、信じられないくらい小さいサイズのオレンジのタンクトップと黒ベースにオレンジラインの入った短パンを装着している。もともとそういう着方をするようには裁断されていないため、ただ単純に大幅にサイズを間違えている人にしか見えないのだが、本人が満足してしまっているので修正の余地は無い。 そして2011年の年末あたりから、自分が走るレースがあるとわしと妹の分も勝手にエントリーするという極めて迷惑な行為に満足を覚えているらしく、そのせいでわしはこの12月と1月だけで2回もレースに出場するはめになった。 1月15日(日)には新宿シティマラソンという大会が国立競技場周辺で開催され、我々はハーフマラソンの部は抽選に漏れたので10kmの部に出場することになっていた。現在のヨシノブにとってはランニングがプライベートのプライオリティーの1位となっているため、実際かなり練習している。この元旦も突然わしは拉致られ、いきなり10kmくらい走らされた。しかしわしもわしでヨシノブに負けるつもりはないので、業務後などにちょくちょく走って準備を整えていた。 いよいよ新宿シティマラソンを翌日に迎えた夜、ふとヨシノブからメールが入った。 ヨシノブ:「会社の仕事が忙し過ぎて出場することができなくなった。」 え!????勝手にエントリーされたから渋々練習してきたのに、1人で走るなんて意味無いじゃん!!!?? わしは愕然としたが、その時訳あってゲイの集まる酒場にいたためいろいろ思考能力が低下していた。わしは当初ゲイツアーの1次会にしか参加しないつもりだったのだが、結局もうやけくそよ☆!とばかりに2次会のガチのゲイバーへと突入してしまった。ガチのゲイバーの異空間っぷりはそれはそれは楽しく、翌日に控えたレースのことも忘れて深夜まで飲み続けてしまった。結果終電を逃し、タクシーで帰宅した。 朝自宅にて、昨晩の劣悪な鏡月さんがまだだいぶ頭痛と内臓の違和感という形で残っている状態で目覚めると、1Rの狭小住宅にはえーじとたくちゃんが寝ていた。 ん?????僕は新しい世界を開拓したのかな???? わしはシャワーをしながらオシリを確認したが幸い開通した形跡はなかったのでとりあえず安心した。そしてその後すぐにえーじとたくちゃんと別れ、昼からのレースの参加証を取りに一度実家に帰宅した。 実家に到着すると、そこにはうちひしがれた面持ちのヨシノブがダイニングテーブルに鎮座していた。 ヨシノブ:「社会というものはホント最低だ。この無念をどうか晴らしてきて欲しい。ヨシタカなら10km40分の壁を打ち破ることができるはず。わしの分もがんばってきてくれ。」 高校時代の10km走55分という記録しかもたないわしにとって、40分という記録はどんなものか未体験であったが、奇しくもわしはこれまで40分切りを目標に練習してきていた。さすがヨシノブ、何の悪気も無くただの勘でクリアできるかできないかのギリギリのラインを攻めてきた。わしはヨシノブの無念を背負い、国立競技場へと向かった。 国立競技場はランナー以外にも観客が大勢おり、メインスタンドは満員というような状況であった。フィールドの脇にはチアリーダーや太鼓を叩くグループがおり、大会の雰囲気に華を添えていた。 10kmの部の参加者は3000人。気迫でスタート時のポジションをなるべくスタートライン近くにとると、まわりはガチのユニを装着したランナーばかりであった。それに対してわしはベジのクレイジーピンクユニにpatagoniaの黒パンという浮きまくった格好に、3000円という激安シューズで対抗。スタートまであと少し。緊張が高まる。 11:40、遂にスタート!!信じられないスピードで国立競技場のトラックを駆け抜ける先頭集団に負けじとわしもがんばる。奴らの記録は10km35分。せめて中盤まではついていきたい!! コースは国立競技場を中心とした周回コースを4周し、最後はまたトラックを1週してゴールというものであった。 最初の2週はかなり先頭集団にいた。しかし3週目に入り異変が起きた。 だいぶ心肺が疲れてきたところで、遂にアイツが逆襲を始めた。 鏡月さん コメカミに脈拍を感じるたび、わしの目の前に 「鏡月」 「鏡月」 とフラッシュバックのように残像が見えるようになってきた。明らかに集中力が削がれ、若干ペースダウンしてしまった。それでもなお気迫の走りを見せていると、奴らは攻撃の手を緩めることなく波状攻撃を加えてきた。奴らは排泄系器官に容赦なく襲い掛かってきた。 ピッ わしは年末に続き茶色いアイツと軽くご対面しつつも、歯を食いしばって4周目に突入した。ペースダウンしたものの、4周目に入る前から周回遅れの人たちをゴボウ抜きし続けた。 手元のアナログ針時計(Swatch)でちょうど40分経過くらいのところで国立競技場のトラックに突入。わしは鏡月の残像と茶色いアイツとイケメンゲイの「ダーリン」という幻聴を全身に感じながら、まるで短距離走のようなラストスパート!!トラックの400mだけで気迫で5人くらい抜かしてフィニッシュ!!!!! 父と約束した40分を切ることができたのか!!!!?????? 記録用紙を係員から手渡されると、そこには非情な結果が。 41分50秒(120位/3000人) わしは悔やんだ。汗とアイツにまみれ父の無念を背負って走った10km。前日の不摂生さえなければ・・・。 わしは国立競技場のスタンドでしばらく悔し涙を流し続けたの。そしてアイツの処理をすることなく、そのままアルティの練習へと向かったのであった。 追伸 ゲイバーにて、わしは「ダーリン」、ドリンボは「やれないチン」として、ゲイ人気を二分したのであった。 |
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2011 12,07 09:41 |
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最近巷でベッカムテニスクラブなるテニサー的活動が行われており、この12月にも既に2度の開催が予定されている。
11月に行われた初回の練習では、万能系スポーツマン・マイクやテニス経験者の石野氏、卓球経験者のケンやたくちゃん(核爆)などがバシバシ打てており、かなりの盛り上がりをみせていた。しかしその盛り上がりの裏で、ポイントポイントで石野氏が前衛のたくちゃん(核爆)にスマッシュを叩き込んだりする遊びをしていたので、知らず知らずのうちにたくちゃん(核爆)の鬱憤が溜まっていたようである。 その鬱憤は、それから2週間くらい経ったとある休日のアルティの練習の帰り道、ふとした会話の中で爆発した。 わし「たくちゃん(核爆)はこの前のテニスで大変な目に遭ってたね。」 たくちゃん(核爆)「今度やるときは、石野をぶち殺します。」 宣戦布告 12月10日(土)、第2回ベッカムテニスクラブが開催されるが、現場でどれだけの血が流れるのか、考えるだけで恐ろしいばかりである。 |
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2011 12,01 14:46 |
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我が業務日誌にてD-ROADと双璧を成す圧倒的な存在感を醸し出しているゲヴォさんであるが、出会ってから10年以上経つ腐れ縁なのでもうお互い何を話しても新鮮な感覚は生まれないほどの関係なのであるが、最近になって彼のイメージがまた一つ上書きされることになろうとは思ってもみなかった。
今までのわしの彼に対するイメージは、 ・努力家 (小学校からずっと優等生) ・献身的 (ホッケー部のゴールキーパー防具を3年間1人で管理し続けた) ・優しい (男性に対して草食系、女性に対して肉食系) ・ゲーム好き (ウイニングイレブンから理解に苦しむゲームまで一通りたしなむ) ・非暴力主義 (自分を吊るし上げる守田くんに無抵抗) ・ゲロを吐きやすい体質 (試合中、飲み会などシチュエーションは問わない) ・爆毛 (自転車の車輪にフライングボディープレスしてもへっちゃら) ・顔面がロシア (修学旅行で北海道の稚内港にてロシア国籍の漁船を観察していたら、突然中から飛び出してきたロシア人になぜか1人だけ追いかけられた) ・ママ弁慶 (朝8時に起こしてねとお願いしておきながら、翌朝ママに起こされるとガチ切れ) ・性癖に寛容 (S高ホッケー部の部室ロッカーにア○ルシャワーという雑誌を隠し持っていた) まだまだ詳細に挙げられそうではあるものの、とりあえず上記の印象を抑えておけば彼のイメージとしては間違いないはずである。 ここに衝撃のイメージが追加されることとなった出来事が起きたのは、ある年の夏休みに、ゲヴォさんと現奥さんを湘南にておもてなしした日の帰り道の車中にて。 彼らは結婚式を数ヵ月後に控えていることもあったので、わしはゲヴォさんに「どうしてあなたはそんなに毛むくじゃらなのか?」とか「あなたは1日に2度しかヒゲを剃らないと主張しているが、本当は3回は剃っているのだろう?」とか核心に迫る問いを投げかけたい欲望をぐっとこらえて、2人の出会いなど当たり障りの無い質問に終始するという大人の対応をとっていた。 そんなその日のうちに忘れてしまいそうなやりとりの中で、実に心に残る話題が1件だけあった。それはわしが奥さんに、 わし:「ゲヴォさんって、どんなプレゼントをくれるんですか?」 と質問したときである。 奥さん:「○○ちゃん(ゲヴォさんのこと)は、よくタイツをくれるんですよ~。」 タイツ?? わし:「え、タイツって、スポーツ用とかではなくて、普段履くストッキング的なやつとか網タイツ的なやつですか?」 奥さん:「そう、普段のやつ。○○ちゃんは、人にタイツを履かせるのが好きなんだよね~?」 タイツを履かせるのが好き??!!????? 嫌な予感のしたわしは、間髪入れず問いただした。 わし:「てめー、まさか自分で履いたことはないだろうな!??」 ゲヴォさん:「・・・」 彼女にプレゼントするために買ってきたタイツを、待ちきれずに自分で履いてしまうって、何?!!????? ゲヴォさんの一風変わった趣味をあっけらかんと話してくれた奥さんにあっぱれであるが、まさかゲヴォさんにそんな鬼畜な、いやガチ鬼畜な感性があるとは寝耳に水であった。ゲヴォさんに関しては相当な情報通を自負していたが、こうもあっさり裏切られるとは・・・。衝撃は思いのほか大きかった。 ゲヴォさんに会うことがあれば、女性陣はくれぐれもタイツの見えないファッションでコーディネートされることをオススメしたい。(2012年ビーチアルティへの出場を、鋭意交渉中) |
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2011 11,24 17:28 |
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安いほうのハイパーメディアクリエイターを自称しているわしは、最近では大会ごとに複数のチームからユニフォームの制作を依頼される。
特に学生チームから依頼されると、わしは完全な善意に基づき、ほぼボランティアで依頼を引き受けてしまう。お金なんかより、学生たちの笑顔や「ありがとう」の言葉をもらえるだけで心が温まり、制作の原動力となるのである。 2011年11月19、20日と富士でGAIAカップが行われた際も、わしは複数チームのユニを手がけた。中でも日大のユニは糞安いテーマのくせに糞鬱陶しいほどにデザインの指示が多く、普通に国内の業者に頼んだら、プリント料とデザイン料で1着だけで軽く20000円は超えるようなシロモノを依頼された。 それでも、世界大会も一緒に行って思い出を共有したかわいい後輩たち(シュウヘイ、ヤイタ、ハル、スグル)のために一肌脱いでやるか、と、わしはナイチンゲール並みの献身さで、彼らの笑顔だけを思い浮かべて制作に励んだ。 制作作業中はつらくても、当日大会会場で彼らの近くを通るとお礼を言ってもらい、これまでの苦労が帳消しになるくらいうれしく思うものであった。大会が終わり車で会場を後にする際も、わしが車に乗っていることに気づいた日大ボーイや日大ガールがわざわざ車のほうに来てお礼してくれたのには、わしはいたく感激したのであった。 そんな心温まるやりとりの裏で、鬼畜としか思えない悪だくみを仕込んでいた野郎がいた。D-Roadと安さの契りを交わしてしまった男、そう、シュウヘイ。 大会2日目、ユニ制作にあたり連絡をとりあっていたシュウヘイがやってきて、チームから回収してくれたユニ代をもってきてくれた。 ユニ代は封筒に入っており異様な分厚さをしていたのだが、そこには心温まるエピソードがあった。 シュウヘイ:「今回ユニをつくってくれてありがとうございました。感謝の気持ちを込めて、ちょっと色をつけておきました。でもそれだけでは申し訳ないので、いろいろな割引券とか集めて入れておいたので、どこかで使う機会があったら使ってください。学生は貧乏なのでこんなことしかできなくてすいません。」 なんていうええ子たちや。 わしも学生時代極貧だったため、+αの費用を捻出するのはつらいものであるということは痛いほどに理解できるし、その代わりとして考えてくれたアイデアで割引券とかを入れてくれたということに、わしは何にも不満を覚えなかった。むしろ、その心意気にとても感激した。 わしのクリエイター業はこういうコミュニケーションのためにあるのだと、改めて再認識し、心温まる気持ちでGAIAカップは幕を閉じたのであった。 それから数日後。 わしは都内某所で激務に明け暮れていると、部署内でちょっとした現金の両替の必要が出た。その時たまたまわしは日大からもらった現金がたくさん入った封筒をそのまま持っていたので、女上司に「もしよければこれを使ってください」と差し出した。そういえば封筒の中には牛丼屋の割引券とかも入ってたなーとか思いつつも、両替に支障は出ないはずなので特に気にせずそのままにしていた。 すると、しばらく経ったところで、ポンッとデスクの上にピンク色の紙が置かれた。わしは最初何かのメモかなと思い書かれている事を読んでみると、こんな内容が書かれていた。 「No.21 Name神咲心愛 今日は心愛の相手をしてくれてありがとうございました◎ お兄さん!!初の南はどうでしたか?心愛はお兄さんに会えてすごく良かったです◎ 一緒にいれて楽しく過ごせました◎ でも今日生理中でごめんね!汗 でも触ってくれて嬉しかったよ!えへっ◎」 全身の血が凍りついた。 どう考えても女上司の書いたメモではない。 よく見るとそれは業務のメモ紙などではなく、どうにもこうにも毒々しい、そしてピンクの香りが漂うお店のポイントカード的なものであった。 糸冬 了…_〆(゚▽゚*) わしはこれからのアルティ人生において、日大には執拗なまでに辛辣な仕打ちを加え続けてゆこうと心に誓ったのであった。 |
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2011 11,21 19:31 |
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発言:竜さん
日時:2011/11/20 状況:GAIA初日の飲み会の翌朝 朝僕がトイレに入っていたら、おもむろに堂道さんも入ってきて後ろを通り過ぎて個室に入り、ゲロを吐き始めました。 朝から終わっていました。 |
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2011 11,21 19:27 |
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ハスキーの人たちと飲んだりするときに、その場にいないのに話題をさらっていく人物のことを、その偉大な存在感からわしは勝手に「モンスター」と呼んでいる。わしの中ではピンクさん、ドリンボ、ゴラム、サダオカ、ゴハン、磁石あたりが殿堂入りのモンスターズなのだが、そんな彼らと肩を並べる存在であり、過去の伝説ではなく今なおフレッシュな話題を提供し続けてくれる男がいる。
その男とは、 そう、たくちゃん(核爆) 先日のGAIAカップ2011は、初日の土曜日が驚異的な暴雨に見舞われ、富士のグラウンド一面が池になってしまうほどであった。それでも1試合だけ行われたのだが、賢明な選手たちは防寒具を工夫してそんな自然の驚異に立ち向かっていた。普段装着するアンダーアーマーやスパッツの上に、防水加工のヤッケを着て、更にその上にユニと短パンを重ね着するというスタイルがスタンダードであった。スパイクだけはどうしても代えが利かないので、足元だけがずぶ濡れになることは已む無しという状況であった。しかしたくちゃん(核爆)だけはそんなスタンダードから一線を画していた。アンダーアーマーやスパッツの代わりに「コットン100%のスウェット上下」、そしてスパイクの代わりに「くるぶし丈の長靴(内部がチェック柄というおしゃれ加工)」を装着していた。その上しっかり防水加工のフードで頭部の防御も固めたたくちゃん(核爆)のいでたちは、どこからどう見てもスポーツ選手ではなく、新宿地方のダンボール式家屋にお住まいの方のようであった。 見た目がスポーツ選手ではないたくちゃん(核爆)は試合中でもインクレディブルなプレーを連発していた。シュートをエンド内で一度キャッチしたのに即座に捨ててみたり、中でも圧巻だったのはダイブしてもとれるかとれないかわからないくらいのギリギリのロングシュートを、「まさかのたくちゃん(核爆)のダイブキャッチが見れるかも!?」とギャラリー全員が固唾を飲んで見守っていた際のプレーであった。ダイブキャッチといえば頭から前方にすっ飛んでキャッチしにゆくという運動が大方の認識なのであるが、彼は違った。彼は「ここぞ!!!」というタイミングで、仰向けにケツから地面に突っ込んでいった。そして見事な大の字の形で地面を滑っていた。その光景はまるでウォータースライダーで遊ぶ少年あった。そしてそんな形のダイブではディスクに手が届くはずもなく、当然のTOであった。 そんな激アチなプレーもさることながら、たくちゃん(核爆)は実はこのGAIAカップで人命救助にも貢献していた。 2日目日曜日の朝一の試合後、わしは大会前から体調を崩していたのがぶり返してしまい、全身がプルプル震えてしまうほど体の機能が低下してしまった。救護室に担ぎこまれて応急処置を受け、毛布にくるまれて横になっていたわしの脳に、ふと神の声が届いた。 神「摂取するタイミングは、今です」 わしは震える手でカバンを探り、黄金の巾着袋を取り出した。その中にはビー玉より少し大きいカプセルが入っており、ゆきのとモロ紅パイ太郎の助けを借り、専用ギロチンでカプセルを割ってみると、中から金箔に纏われた玉が出てきた。その神々しさから、これは現実世界の仙豆※であるとすぐに理解することができた。 ※仙豆 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E8%B1%86 なぜわしがそんなものを持っていたかというと、GAIAカップの前の週にハスキーの後輩たちに開いてもらったお誕生日会に遡る。 わしは幸せ者なことに、愛する後輩たちからそれはそれは素敵なプレゼントをもらったのであった。激シブ5本指ソックス、お花、クッキー、白桃烏龍茶、非売品のお皿、クマのお人形さんなどなどホンワカするグッズの中に、1つ異様な雰囲気を醸し出している黄金の巾着袋があった。それだけは誕生日プレゼントとしてはあからさまに異質なものであったのだが、それをもらうときにわしはこう言われた。 たくちゃん(核爆)「やばそうになったら、これを飲んでください」 巾着袋の中身はたった1粒の玉なのだが、その割に非常に高価なものであり、プレゼントをもらった当時は正直「こんなどエライもん、どんなタイミングで飲めばいいんだ?飲んだら飲んだで、わしはどうかなってしまうんでないか!??」と甚だ不思議で複雑な心境であった。 しかしそれを摂取する日は、思いがけずすぐにやってきた。 神の声を信じてプルプル震える手で仙豆をかじった瞬間、体に驚くべき変化が起きた。それまで全身が猛烈な悪寒に襲われており、これまでの経験から恐らく体温が38.5℃はあるなという絶望的な体調であったのだが、体中に張り巡らされた血管という血管に、何かとてつもないエネルギーが駆け巡ってゆく感覚を覚えた。するとそれまで20分あまりプルプル震えていたのがフッと収まり、更に今までの猛烈な悪寒が体幹から末端にかけてみるみる消え去ってゆくことに気づいた。ちょうどそのタイミングで救護室のトレーナーさんに体温計を渡されたので計ってみると、なんと37.1℃であった。脈拍も、担ぎ込まれたときは恐ろしく速かったのが、通常に戻っていた。どう楽観的に考えても、今日1日はアルティなんて到底できないと思えたほど絶望的な体調から、奇跡的な回復をみせた。そしてわしは倒れた次の試合からなんとか復帰することができたのである。 未来を予見したたくちゃん(核爆)によって、鬱死寸前のわしは救われたのであった。 今後も、たくちゃん(核爆)にはその珍妙すぎる観察眼とインクレディブルな行動から、生ける伝説的モンスターとしてチームを盛り上げていっていただきたい。 |
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2011 11,17 14:50 |
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ハスキーズ20周年記念式典
ハスキーズには年1回、歴代のOBOGと現役学生の全員を迎えて行う「ハスキーズ総会」という行事がある。ハスキーズ総会の幹事は卒業5年目の代のメンバーが担当することが慣例となっている。 1990年に創立されたハスキーズは、2010年20年目を迎えた。そして奇しくも、負の遺産としてハスキーズの歴史の中でも、今やタブー視されている我々12代が幹事を務めることとなった。 前回の区切りの総会は15周年を記念して行われたのだが、当時学生だったわしはそのクオリティーに圧倒され、「社会人ってすごい!」と思ったものだ。伝統的に昼の部ではアルティメットを行い、夜の部ではパーティーを行う。15周年の昼の部の場所は、なんと代々木体育館であり、現在ワールドカップバレーが行われている会場が貸切となっていた。贅沢な環境でアルテミットを楽しんだ後の夜の部は、これまた豪華な会場が貸し切られており、15周年記念映像やハスキーズ専用スクリーンセーバー、記念Tシャツなど様々な手の込んだ記念品が手配されていて、先輩から「5年後の20周年の担当はおまえらだな!!」と肩を叩かれたのを覚えている。 当時ハナタレ大学生だったわしは極貧のあまりアンダーアーマーのヒートギア(ノースリーブハイネックのコンプレッション・黒)を私服として着用するくらいの最低ランクの人間だったので、5年後どうなることやら全く想像できずにただただハナをたらしていた。しかし、偉大な先輩たちの歴史を受け継ぎ、20周年記念総会を成功させなければならないという責任感は、当時からうっすらと芽生えていたことは確かである。 それから4年経ち、19年目のハスキーズ総会にて、「次回の幹事から一言」ということで、わしはマイクを握らされた。わしは「がんばります」と言った。自分で言うのもなんだが、わしは「がんばります」という言葉にはキッチリと責任を持ちたいというポリシーがある。そのため何事についても口先だけ「がんばります」と言って、結果云々より何よりがんばる姿勢が感じられない人にはあからさまに不信感を抱いてしまう。わしはその時100人以上の前で「がんばります」と宣言したので、これはエライ責任を覚悟したのであった。 それから丸1年、わしはがんばった。「映像制作」、「ハスキーズ選手名鑑」、「20周年記念ユニ」、「グラウンド手配」、「パーティー会場手配」、「協賛のお願い」など、メインどころの仕事はほぼ手がけた。中でも、「ハスキーズ名鑑」をつくるために要した時間は半年に渡る。選手名鑑には歴代のハスキーズの選手全員を載せたいと思っていたので、各代代表の方に協力してもらい代ごとに個人個人のデータを提供してもらうという方法をとった。それらを全員分編集するのはそれはそれは地味で時間のかかる作業であった。中には総会1週間前まで音信不通の代があったりして冷や冷やものであったが、なんとか締め切りまでに全ての代が揃った。 そこで気づいた。 あれ?20周年記念なのに、20代目の人たちの情報が無い!????? 数えてみたら、作業をしていたのは5月だったので、20代目の人たちはまだ入部が確定していないからデータが無いのである。 なんかおかしいぞ。 「~周年」という言葉を辞書で調べてみると、こんなことが書いてあった。 1 まる1年。また、一周忌。 2 数を表す語について、年数の経過を数えるのに用いる語。まる…年。 [大辞泉より引用】 あれ???まだ20代目の人たちが入りたてということは、20年目は終了していない。 ということは!!???????? 今回のハスキーズ総会は、『創立19周年』!!!!???????!?!? ガビーソ!!! わしはλ18で卒倒寸前であった。 ここまで周到に準備してきての、まさかの年数数え間違い!!! 我々12代が糞虫のように鬱陶しがられるのも納得がゆく。 今更後には引けないので、こっそり「20年目記念」ということで盛大にやらせていただいたが、実は2011年が本当の「20周年総会」であった。次回、恐らく25年が区切りになると思われるのだが、「25年目総会」とするのか「25周年総会」とするのか、幹事に該当する代の方たちには、是非なすりつけ合いの醜い争いを繰り広げていただきたい。 |
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2011 11,14 18:11 |
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高校2年生の終わりから、わしはホッケー部の主将となった。1年生も8人くらい入り、晴れて大会に参加できる資格を得た。
そして高校3年生の6月、最後のインターハイ・県予選を迎えた。わしはわしなりに主将としてチームの運営を改善した。同系列の付属校のチームと合同練習を行ってもらったり、これまで1度もなかった他校と練習試合を組んだりと、いろいろなことを始めた。定期的に他校と練習や試合をすることで、自分たちの実力を見直すことができたり、それによってどんなところを強化したらいいのかと考えられるようになった。普通の部活では当たり前のことだと思うが、それが当たり前でないほど頽廃していたS高ホッケー部にとっては全てが改革でありチャレンジであった。しかしその一方でチームとしてがんばる方向に部員を引っ張ることは大変なことであった。 そうやって半年弱という短い期間であるが、チーム改革を行った我々は2年ぶりの公式戦に出場した。 対皆野高校 0-13 対飯能高校 0-6 2年前に戦ったより点差は縮まったものの、やはりまだまだその差は大きかった。残された公式戦は飯能南高校だけとなった。 飯南はこれまで部員数が少なくて活動ができていなかったというチームである。逆に我々が活動できなかった去年から復活していたようで、そういう意味ではチーム環境は似たものがあったかもしれない。ここ1年の活動の差で勝敗が決まるといっても過言ではないので、我々は、我々なりに、気合を入れて試合に臨んだ。 初めて、対外試合で手応えがあった。チームとして別格の完成度を誇る先の2校と違い、飯南とは互角に戦うことができた。もちろん圧倒することはできないまでも、我々のホッケーでも通じるところは通じた。70分全力で戦った。 対飯能南 1-0 最後の公式戦で勝利した。わしからのラストパスを後輩のフジタがゴールにねじ込んだ。3年間で最初で最後のS高のゴールシーンは、意外とあっさりとしたものであった。それにしても3年越しの1点は遠かった。そして、S高校の公式戦勝利は5年ぶりくらいとのことであった。 県予選敗退は変わらないのだが、弱小S高ホッケー部でも努力すれば変わることができると希望を持つことができる敗退であった。 それから3ヶ月経った9月、監督から吉報が伝えられた。皆野高校の監督に先般の公式戦での戦いぶりが認められ、S高の3年生であったわしとゲヴォさんが、国体に向けて埼玉県代表チームを結成するための県代表セレクション試合に招待されたのだった。 県代表・・・。夢にまでみた皆野高校や飯能高校の選手たちと一緒にプレーできるかもしれないということで、わしの気持ちはそれはそれは高ぶった。日頃の練習により一層の熱を入れたことはもちろん、自主的にランニングをしたりして、セレクション試合に向けてコンディションを高めた。 そのセレクション試合にて、ゲヴォさんがその名の由来ともなる史上空前の破壊活動を炸裂させたことにより、わしの夢と希望は戦わずして、水の泡と消えた。 セレクション試合は開始からたった5分、グラウンドの周囲で我々の雄姿を観戦していた女子高生たちから叫び声があがった。わしは、県代表レベルになるとこうもファンができて黄色い声援が届くようになるのかと気分が高揚してますますやる気がみなぎってきた。しかし、その叫び声、もとい悲鳴はプレーとは全く関係ない場面なのにしばらく続いており、わしは一抹の不安を覚えた。すると突然、ピピーーと審判が鋭い笛の音を鳴らした。 審判:「試合を中断します!!」 !!!?????? えっ??こんな晴天なのに雷でも落ちたのか!?????? 訳のわからぬ状況の中キョロキョロあたりを見回してみると、どこから現れたのか、自陣ゴール前には10人前はあるもんじゃが広がっていた。信じられないことに、セレクション試合というプレッシャーに耐え切れなくなったゲヴォさんが、ゴールキーパーの防具を装着しゴール真正面に鎮座したまま、ヘルメットの中から大嘔吐なされたのであった。5歩くらい移動して、せめてゴールの裏で吐けばまだ試合自体は続行できただろうものを、彼は自らが没するまでゴールを守り続けた。彼がいなくなっても広大な毒池が広がっているため、誰もゴールを割ることもできないし、割ろうとも思わない。真の守護神とはこういうものなのか。 没収試合になった後にコート裏でなぜかわしが皆野・飯能の選手に囲まれて大変な目にあったことは忘れられない思い出である。わしが大変な目に遭っている間、ゲヴォさんは涼しげな日陰でドヤ顔のまま安静に横になっていた。壮大に広がるゲロの池を、せっせと後処理するトドコーチの背中は、とても小さくて、悲壮感が漂っていた。。。 せっかく訪れたチャンスをまさかのチームメイトにより打ち砕かれるという悲運も、まだ神様は我々を見捨てていなかった。毎年11月頃に行われるホッケーの早慶戦の高校生の部に、「オール慶應」のメンバーとして招集されたのである。なぜか召集メンバーにゲヴォさんも含まれており、その件に関しては甚だ疑問ではあったのだが、「ゲロを吐きたくなったらせめてコート外で吐きやがれ」とアドバイスしておいたので、今回ばかりは晴れ舞台を完全破壊してくれることもないだろう。 そしてわしは両親を試合会場に招き(高校3年間で初)、J高のメンバーに混ざって慶應代表として早慶戦に臨んだ。 ALL慶應 8 – 0 早稲田 完勝であった。周りのメンバーが頼もしく、わしも2得点を挙げることができた。ゲヴォさんもこの試合では粗相がなかった点では成長がみられた。 その試合をもって我々3年生はホッケー部を引退となった。最後の最後に活躍をみせた我々は、S高ホッケー部の監督から熱心に大学の体育会への入部を勧められ、大学の監督からも事あるごとに勧誘された。 ホッケー一筋で高校3年間を過ごしたわしは当然体育会への入部を決意し、青春時代の夢を共に追いかけた同志ゲヴォさんはラーメン研究会と天文観測同好会への兼部を決意した。 しかしながら、華々しい大学ホッケー生活が待っているかと思いきや、人間関係のいざこざにより半年で退部を決意。 大学生活での目標を失ってから2ヶ月経った大学1年生の11月、わしは家の机の上にふとハスキーズのパンフレットが置いてあるのを見つけたのであった。 |
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2011 11,11 13:19 |
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我らがS高校にもいわゆる文化祭というものがあり、当初農業学校であったことから「収穫祭」と呼ばれていた。
我々ホッケー部も美術室を1部屋おさえることができ、さてどんな出し物をしようかといろいろ案を練った。ホッケーストラックアウトとか、ホッケーボーリングとか、実際にゴールを持ってきて来場者にゴールキーパーとのとのPS(ホッケーではいわゆるPKのことを、PS、ペナルティーストロークと呼ぶ)をやらせるのも面白そうだなと、いろいろアイデアが湧いてきた。なかなか議論に決着がつかなかったので、その時マネージャー兼ゴールキーパーの座に成り上がっていたゲヴォさんに我々の出し物のネタを実行委員会に提出してきてもらうことにした。マネージャーの立場として彼の考える一番まともな案を提出してきてくれるだろう。わしはそう期待していた。 後日、各団体の出し物が発表された。 ホッケー部【合成写真館】 !!???????????? 我々は来場者を写真撮影したデータを、いくつか用意した背景パターンに合成し、プリントアウトしたものを額に入れて来場者にプレゼントするというわけのわからない企画をやることになっていた。 準備日、わしは恐る恐る美術室を覗いてみると、そこにはホッケー部員の姿はなく、ゲヴォさん率いるどこから湧いて出てきたのかわからない変態ギャルゲーマニア集団によって占拠されていた。既にそこでは壮大なゲーム大会が開かれており、ストリートファイターみたいだけれども、格闘家の代わりにアニメギャルが闘うみたいなわけのわからないゲームでクサイ男たちが大いに盛り上がっていた。わしは死にたかった。 収穫祭当日、わしはひたすらにPCと向き合い画像の合成作業に取り組んだ。来る客は、地元のおばちゃんが9割8分である(子どもが1人いた)。知らないおばちゃんがポプラ並木に立っている画像とかをひたすら合成しているうちに、わしは実はもう死んでいるのではないかと錯覚したほどである。わしの推測では、合成写真館を開けば公然とデジタルデータとして女子高生の画像を自分のメモリーカードに残すことができるという極めて邪悪な妄想によりこの企画が発案されたと睨んでいるのだが、残念ながら女子高生なんぞ一人も来ない。そこはゲヴォさんの想定を完全に外れていた。 なぜこんなことが起きたのかというと、その年、同系列の付属校であるJ高が鬼畜なことに彼らの文化祭である「日吉祭」と収穫祭の日程をぶちあててきたことにより、世の女子高生は全員日吉祭に吸収されてしまったのである。そのため収穫祭の来場者は、受験生か近所のおばちゃんかしかいないという恐ろしい事態が発生したのである。 驚異的にいけてない高校3年生の文化祭であった。 |
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2011 11,10 09:54 |
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我々が2年生になった。新学期、ホッケー部の部員は2年生と3年生あわせて4人しかいなかったので、是が非でも新勧を成功させなければいけない訳なのだが、正直1年生だけで7人集めるのは難しい。ゲヴォさんはここぞとばかりにいいところを見せつけようとGKの防具に身を包んで校内を練り歩いていたが、防具を装着していることが災いして会う人会う人みんなにボコボコにされるだけで全く勧誘活動としては芳しいものではなかった。
結局新入部員は5人であり、計9名のS高ホッケー部は、スキー部のドベさんを呼んだとしても大会に参加できない状況に陥ってしまった。非常に不毛な1年であり、そしてイケてない高校生活に拍車がかかることにゲンナリであった。 しかしそんなある時、顧問からこんな話が出た。 顧問:「今年から7人制ホッケーの大会というものが開催されるみたいだよ。」 なんたる幸運。これにより部の活動意義がなんとか保たれることとなった。 夏、我々は7人制ホッケーの大会会場である、飯能市の阿須運動公園へと向かった。当時は当然車移動なんてなかったため、全員西武池袋線元加治駅に集合し、そこから30分くらい徒歩での移動である。元加治駅に到着すると、思わぬ歓迎が待っていた。 ボロいスクーターに、ノーヘル、ド金髪、2ケツという、どこからどうみても「ザ・ヤンキー」のお方たちが、完全に我々をロックオンしている様子であった。寂れた駅前の通りを、我々の集合ポイントを中心に行ったり来たり、ブンブンとアクセルを吹かしながら往復しておられた。 彼らの恨みを買うようなことは一切行っていない我々であったが、一同暴力がキライであったため、イワシの大群のように小さくまとまって阿須運動公園の方に歩いていった。 後ろのほうでブンブンいっているが、どれだけ歩いても音が遠くならない。嫌な予感がしてしょうがないのでチラッと後ろを振り返ってみると、先ほどのバイクが我々と10mくらい距離をあけて、我々が歩く速度と同じ速度でついてこられていた。熊と遭遇したときと同じくあまり刺激してはならないと察したため、皆何事もないかのように粛々と開会会場へと歩を進めた。 駅から歩き始めて約30分、我々はヤンキーを引き連れてようやく大会会場へと到着した。会場の駐車場を通り抜けようとすると、駐車場の端にある仮設トイレの脇にバキュームカーが停まっており、そこから何かまるで噴水のように噴出しているのが見えた。 ・・・それは、汚水の噴水であった。ギャグマンガでしか見ることのできないバキュームカーの逆噴射が、目の前で繰り広げられていた。文明のある程度発達した国ではまずみることができない、地上をウ○コが流れるという終わっている状況を尻目に、我々はロッカールームへと邁進した。 道にはウ○コ、後ろにはヤンキー。試合前の心理状態として最低であることに間違いない。 我々にターゲットを絞ったヤンキーは、それはそれは律儀であった。我々がグラウンドで試合している最中も、延々とグラウンドの金網の外をブンブン走り回っていらっしゃった。もしかしたら、彼らなりの応援だったのかもしれない。 動揺を隠し切れない我々は、そこそこの点差をつけられて敗戦した。しかし試合終了の頃には、私設応援団の方々も撤退なさっていたので、我々は悔しいというよりもホッとした気持ちで帰路についたのであった。 |
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2011 11,09 10:39 |
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我々へなちょこホッケー部であるが、実は登録メンバーはたくさんいた。1年生は4人(先日の試合で1人消えた)、3年生は2人なのに対し、2年生が15人くらいいた。中には幽霊部員もいたが、大会とかには十分参加できる人数が揃っていた。
6月に皆野高校で悪夢のような体験をした1ヵ月後、学校は夏休みに入った。我々はへなちょこだがれっきとした体育会のチームであったので、一応夏合宿を行う風習があった。3泊4日くらいで、場所は校内の合宿所で行われていた。2日目の夜、何の前触れも無しにかの猟奇的なモリタ君が「俺、帰るわ」と発言し、合宿所から脱走した。1年生は3人となった。 合宿3日目の練習にはコーチがやってきた。コーチは社会人(当時30台前半くらいだったのかな)であり、バナナマン日村と伊集院光を足して2で割ったような方であった。しっかりとメガネも装着しており、どう見ても運動神経はよさそうではなかったが、トラディショナルなスティックさばきは見事なものであった。見事というよりむしろ変態的でもあった。そんなコーチは部員からは専らトドコーチと呼ばれていた。 その日は普段あまり練習に来ない2年生も多く参加しており(合宿なのに日帰り)、和気藹々としたムードで練習が行われていた。しかしある時、ただならぬ顔でトドコーチが集合をかけた。 トドコーチ:「おまえらたるんだ空気で練習しているが、不真面目なヤツはこのチームにはいらない。この先本気でホッケーができないやつは、この場で立ち去ってもらいたい。」 スポ根ものによくある、いわゆるはっぱをかけるというやつである。だいたいこの後みんなコンチクショウと思って練習に励み、チームが一体となってゆくというのが王道である。 しかし誇り高き戦闘民族を自負する我々はスポ根マンガとは違った。 2年生15人のうち13人が部を去った。 これにより、1年生2人、2年生2人、3年生2人で計6人のチームとなり、11人で行うホッケーの大会に出ることができなくなった。トドコーチのゲキは、ただの取り返しのつかない粛清という形で終了した。 |
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2011 11,08 10:43 |
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ゲヴォさん宙吊り事件から1ヶ月。我らがホッケー部同期は今のところ1人も辞めずになんとかホッケー部を続けていた。猟奇的なモリタ君もすぐにやめるかと思ったら、案外練習に顔を出していた。中でもソヤマは上流階級の家庭出身であるので地味でイケてないホッケー部なんぞすぐに辞めてクラブ通いに染まってしまうかと懸念されていたのだが、みんなで引き留めていた甲斐もあってなんだかんだで続けていた。
ある日の放課後練習のため鳥カゴ(当時のホッケー部は権力が皆無であったためグラウンドを使うことを自主的に控えており、周囲の網が風雨による劣化でとっくに朽ち果てたハンドボールコートの中で練習していた。そのハンドボールコートが通称鳥カゴであった。)に向かっていたら、珍しくわしより早く練習している人がいた。よく見るとソヤマであった。彼はトリカゴの中心付近で少しおかしな格好で静止しており、パッと見では何の練習をしているかわからなかった。わしはすぐに練習の準備をして彼の隣に行ったが、それでも彼が何をしているのかはわからなかった。彼はホッケーのスティックの柄の部分をズボンの上からケツに挿入しており、「これ、気持ちいい」と言っていた。 わしは言葉を失った。 そんなこんなで6月の半ば、いきなり顧問より対外試合があると伝えられた。なんとそれは練習試合ではなく、いきなりのインターハイの県予選であった。わしは初の対外試合ということで武者震いした。 それからすぐの週末、我々は埼玉県でもかなり北部に位置する、県立皆野高校へと向かった。皆野高校は埼玉北部の山地の中腹にあり、最寄り駅から歩いて30分くらいかけて学校まで行くのが非常にしんどかった。最寄り駅は西武秩父線「親鼻駅」というところで、よく修学旅行とかで行く長瀞のすぐ近くであった。我々のS高校からでも片道2時間以上かかる、とにかく遠い場所であった。 いよいよ皆野高校の控え室に入ったところで、おかしなことに気がついた。ホッケーは11人でやるスポーツなのに、知っている顔は10人しかいない。後1人、知らない人がついてきていた。 監督よりスタメンが発表された。 FW アサクラ(2年)、わし(1年)、ドベ(2年/スキー部) MF ゼンポー(3年)、シコピュン(2年)、サワダ(1年) DF ソヤマ(1年)、コヤノ(2年)、ゲヴォさん(1年) SW ハタノ(3年) GK キムラ(2年) FWに、なぜか初対面のスキー部の人が入っていた。欠席者もいたため全体的に人数が少なく、我々1年生もかなりメンバーに入っていた。 初戦の相手は、今大会のホスト校でもある皆野高校。埼玉県には4校しかないのに、前年のインターハイでベスト4に入るという全国的にも強豪校である。 そして、試合が始まった。いや、それはもはやスポーツの試合ではなく、ただのジェノサイドであった。全国レベルの強豪を相手に、チームメイトに宙吊りにされガンジー状態の男や、選手の命であるスティックをケツに挿入している男などの集まりでしかない我がチームは、常にコートの6分の1で試合をしていた。もちろんその6分の1とは、自陣ゴール前である。彼らは練習のようにパスを回し、集団リンチのように強烈なシュートを放ってきた。ほとんどのシュートは1発でゴールに入ってしまうのだが、GK・キムラが奇跡のファインセーブをしても、なんと彼はゴールキーパーの防具を装着した状態では1人で立ち上がれないというとてつもないオプション能力を備えていたため、チームメイトがディフェンスを放棄してキムラを起こしている間に次なる無慈悲なシュートを叩き込まれたことは言わずもがなである。そうして試合開始から地獄のような時間が過ぎていった。 そして試合も後半に入ったところで、事件は起きた。試合中にも関わらず、グラウンドの中央でソヤマは靴紐を結ぶのにえらく手間取っていた。あまりに手間取りすぎてスティックを地面に置き片膝を付いた状態で紐を結んでいると、皆野高校の選手によるシュート性の鋭いパスが、狙ったか狙ってないのか不明だが、一心不乱に靴紐を結ぶソヤマに直撃。ほどなく彼はインジャーリーで退場した。 ただでさえキビシイ状況の中、人数が11対10になるハンデを背負うという鬼畜のような追い討ちもあり、結局試合は28-0で終了。試合は35分ハーフなので2,3分に1点のペースである。失点してからセンターラインまで戻って試合再開するまでの移動時間も考えたらもっとハイペースかもしれない。ボールポゼッションは97:3といったところであろう。しかもその3%のほとんどの時間は、スキー部のドベさんによるドリブルの個人技によって稼いだ時間であった点というのには驚きである。 28-0という記録は、埼玉県のホッケー史上の最多得点とのことで、歴史が塗り替えられた瞬間でもあった。その場に居合わせることができたことはとても光栄である。ちなみに普通のホッケーの試合の点差はサッカーとさほど変わらず、3点もとれば大量得点である。 そして、その試合を最後に、ソヤマはホッケー部から去った。 |
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2011 10,24 17:52 |
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同期ネタが続いているので、キャプテンとして我らが12代・負の遺産を率いた男についてもおさらいしておきたい。彼の名前は何だったかなぁと思い返すと、なんと本名が思い出せない。かれこれ10年来の付き合いだというのに・・・。現在の名前から過去に遡って本名を突き止めようとがんばってみた。
(高校時代)パイちゃん
結局本名は思い出せず、謎は深まるばかり・・・。 |
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2011 10,20 12:48 |
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再三紹介しているが、我らハスキーズ12代は負の遺産としてハスキーズのみならず社会一般的に鬱陶しがられているわけだが、そんな我々の中で確固たるヒーローの座を譲らない男がいる。
それは、チープエンペラー・D-ROADでもなく、顔面迫力部長・ONAKASENAKA部長でもなく、もちろん自己満むっつり野郎・わしでもない。 並みいる曲者を押しのけてのヒーロー気質の男とは、 そう、天パーダイビング野郎・タンク。 彼のヒロイックは誰もが認め、節々のシーンで圧倒的な伝説を残してきている。 2011年3月吉日、モッコリペロ紅パイ太郎氏の結婚パーティーが催された際、タンクさん(つんくさんと同じイントネーション)はまたひとつ伝説を残した(過去にも「レッドカーペット汚物噴射事件」、「健康診断の尿検査で誤ったサンプルを入れた疑惑事件」、「パトカー5台でリアル連行事件」など過激な伝説が語り継がれている)。それは、パーティー序盤の新郎新婦の入場シーンでのことである。「新郎新婦入場」というくらいだから世間的には間違いなく主役は新郎新婦なのだが、彼は違った。彼は会場の全ての視線を独占していた。 そのパーティーでもよりによって負の遺産たちは幹事を任されており、新郎新婦入場の部分でも会場を盛り上げようと映像を用意していた。映像はモッコリペロ紅パイ太郎夫妻が仲良く遊んでいる様子を50TAの「Perfect Love」にのせてお届けするというものであった。ただ、映像をつくったわしは、何かが足りないと悩んでいた。がんばって会場の皆さんの心が暖まるハートフルな作品をつくったつもりであったが、何か機械的で、冷たい感じが拭いきれない・・・。 何が足りないのだろう・・・。 そうだ、血の通った人間による生歌だ!!!!! わしは100人以上入っている会場全体に向かって生歌を披露するという無理難題を、パーティー3日前にある男に依頼した。普通ならこんなドギツイ依頼は嫌だ嫌だとたらい回しにされるのが常であるが、彼は男の中の男だった。二つ返事でOKをいただけた。 その男こそ、 タンク。 パーティー当日、彼は余裕があるのかないのかよくわからない表情で会場に現れた。準備は大丈夫?と心配すると、「練習したから大丈夫」とのこと。しっかり自作のカンペも仕込んでおり、彼なりに努力が感じられ目頭が熱くなった。 そして本番がやってきた。会場の250インチはあろうかという巨大な天つりスクリーンの前に、ゆうに2メートルはあろうかというこれまた巨大な三脚を設置し、勇ましい足取りで頂点まで登ってゆくタンクさん。次第に小さくなってゆくタンクさんの背中を見上げながら、どれだけの頼もしさを感じたことであろうか。 巨大三脚の頂点に到達したタンクさんは、高高度で必殺ラルクアンシエル座りを繰り出し、準備万端である。 そして映像が始まった。 歌の出だし。 初っ端から噛みまくっている!!? タンクさんの身に何が起きたのかはわからなかったのだが、か細い声で歌うタンクさんは、カンペを見ているにも関わらず見事に歌を間違えまくっていた。それにしてもギャグなのかと疑うほどことごとく間違えていた!歌詞もタイミングも、全てタンクさんがクリエイトしていたといっても過言ではない!!!! わしはONAKASENAKA部長と、事故現場と離れた場所にある機材操作卓からその模様を観覧していたのだが、そこからでも上空のタンクさんがびしょびしょになっているのがわかった。それは素人的な冷や汗ではなく、熱唱による発汗であったと信じたい。 そして、巨大三脚付近に陣取っていたハスキーズの人たちはこの晴れ舞台での大事故に対しても寛容な反応をみせていたのだが、その他会場の大部分を占めるハスキーズ以外の方たち(某商社の人事系の方々)の放つ視線の鋭さは尋常ではなかった。タンクさんは空中で完全に眼殺されていた。 会場に入場してくる新郎新婦へ向けられるはずだった注目の全てを己の肉体に受け止めたタンクさんは、巨大三脚から地上に降り立ち、一大プロジェクトを完遂させた漢の顔で一言。 タンクさん:「これでいいんだろ」 彼のかっこよさは私を感激で震えさせた。 今後も彼は完璧なエンターテイメントを我々に提供してくれることだろう。 そんなタンクさんも、来年めでたく・・・!??!!!??? |
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2011 10,17 17:35 |
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その日、あの無敵の暴れん棒将軍が沈んだ。 あれほどまでにショックのあまり思考が停止し、魂が抜けたように呆然と立ち尽くす人を、私は見たことがない。しばらく経ってその場から静かに離れてゆく彼の背中は、見たことがないほど小さく、周囲の空間はセピア色に彩られているように感じられた。そこに誠意大将軍の面影は全くなかった。 2011年10月吉日。我らが同期の中でも飛び抜けた有望株である徳田君と、彼の筋金入りの追っかけであるなっちゃんの結婚式がめでたく執り行われた。喜ばしいかつ責任重大なことに、ハスキーズの負の遺産の称号を欲しいがままにする我らが12代が2次会パーティーの幹事を任されていた。そんな負の遺産プロデュースのパーティーに、誰も知らない、いやむしろ知るよしも無いサプライズが隠されていた。 パーティーはいたってノーマルなスケジュールが組まれていた。 新郎新婦入場→開会挨拶→友人による乾杯の挨拶→ケーキカット→プロフィール映像→余興×3→閉会の挨拶→新郎新婦退場 当日参加されていた人はこのどこにサプライズがカチ込まれていたか気づいたであろうか。ヒントは、あるタイミングで、パーティーに邪な出会いを求めて暴れん棒を振り回す誠意大将軍ことD-ROADのテンションがガタ落ちした瞬間である。 隠されたサプライズは、「友人による乾杯の挨拶」のパートであった。パーティーの2週間くらい前からおおまかなスケジュールは既に組まれており、それぞれの役割分担も割り振られていた。そして当初乾杯の挨拶は、「勇者モリンボによる今世紀最大の乾杯ポエム」が予定されていた。しかしそれから新郎新婦側とスケジュールを詰めていく過程で、乾杯の挨拶は彼らの中高時代の同級生にお願いする運びになっていたのである。そのような重大なスケジュール変更があったにも関わらず、スケジュールを組んでいたわしは担当者の変更を最後まで周知しなかった!!そして、その事実を共有しながら最後までモリンボa.k.a.D-ROADに教えてあげなかった徳ちゃんも同罪の鬼畜である!!!! 今世紀最大のポエムを披露すること前提で当日を迎えていたD-ROADは、ポエムを考えるのに前夜の午前3時頃まで眠れなかったという。そして彼なりに大変なプレッシャーを感じていた模様で、午前から行われた披露宴にて少量のアルコールでいたく悪酔いしてしまい、昼過ぎには尋常ではない赤銅色の顔色をしておりなんと披露宴中にお亡くなりになっていた。決して酒に弱くない彼にしては珍しい現象である。今回ばかりは高砂席の新婦の料理を貪り食う余裕も無かった模様である。 披露宴が終わり、パーティーが始まった。そしていざ本番がやってきた。司会のONAKASENAKA部長が、「続きまして乾杯の挨拶に移らせていただきます。」と語るだいぶ前から、我らがD-ROADは司会台のすぐ脇にて直立してスタンバっていた。その直前まで会場のソファでゴミのようにくたばっていた彼の顔は、一転して決戦を直後に控えた戦士のように凛としていた。覚悟を決めた男の顔をしていた。そして、ONAKASENAKA部長は言った。 部長:「乾杯の挨拶は、新郎新婦の中高時代の友人であるM氏にお願いしております。それではM氏、よろしくお願いいたします!」 その瞬間、D-ROADの顔面は壊滅的なまでに表情を失った。 しばらくの間、事態を理解できていない様子であった。とっくにM氏が乾杯の挨拶を始めているというのに、D-ROADは司会台のとなりでずっと直立不動であった。その間何度もわしの作成したスケジュール表(未更新)を読み返していた。そして最後まで司会からD-ROADが紹介されることは無く、何事も無かったかのように乾杯がおこなわれた。 壊滅的な顔面のD-ROADは、何かを悟ったようにイスに崩れ落ちた。彼の目は虚空をさまよっており、時折誰にも聞こえないくらい小さい声でなにやらブツブツつぶやいていた。すぐ隣にいた人の談によると、「せっかく知恵を振り絞って考えてきたのに、どうすればいいんだ…」と水泡に帰したポエムをいたく哀れんでいたとのことである。 しばらく放心状態で黙り込んでいたD-ROADは、誰にも話しかけることもなく会場の人混みに消えていった。 しかし、スケジュールを組んだわしとしてもさすがに用意してくるであろうポエムが無に帰すのはかわいそうだと思っていたため、内密に「必殺ポエムずらし」を予め仕込んでいた。会場もまだ温まっていないタイミングの乾杯挨拶ではなく、我々の余興であるところの「D-ROADのぐちゃぐちゃミッキーマウス」というクソ安い出し物で来客者にD-ROADが何者なのかを認知させた後で、ポエムの時間を用意してあげていたのである。(こちらもサプライズだけど。) 虎舞竜の『Road』をBGMにまんざらでもない様子でスポットライトを浴びたD-ROADは、「二人が出会ったのはStation、今日の二人はCongratulation」などという、韻を踏んでいるといっていいのかどうかもよくわからないゲロ安いHIPHOPポエムを炸裂させていたが、ポエムを詠う彼の顔は生き生きとして本来の輝きを取り戻していた。そして自信のポエムを詠み終えて完全に復調した彼は、その後ご満悦で会場にいた女子たちをたぶらかしまくっていた。(が、その様に強烈な嫌悪感を抱いていた馬場もとい石谷女史は、最後の切り札である「その人既婚者です」のカードを早々にきったため、彼は周囲の女子から読んで字の如くタコ殴りに遭っていた。やられて然るべき、とても微笑ましい光景であった。) そんな、お騒がせサプライズのよってアップダウンの激しい一日を過ごしたD-ROADであった。 |
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2011 09,12 13:30 |
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2011年の全日本選手権一次予選@ひたちなかにて。 なぜチームのキャプテンなる者が直々に試合を偵察していないのかというと、彼はよりによって試合の当日に乗るべき高速道路を間違え、あろうことか東京から関越自動車道に乗り新潟へと突き進むという不祥事を起こしたために罰としてオブザーバーを押し付けられたのである。その日から彼は『関 越雄』と呼ばれるようになったことは想像に易い。(ちなみに関 越雄の前は、『てっぺん とり雄』と呼ばれていた。こちらの由来は、先日の社会人選手権で我々が上位トーナメントから脱落してしまった後に、デリカット部長からの「これからのチームの目標はどうする?」という問いかけに対し、我らがキャプテンは両人差し指を天空に突き立て、脅威のどや顔で「てっぺん」と宣言したことは、伝説以外の何物でもない。) と、最安値を更新し続けるキャプテンに大役を任されたわしであったが、不意に襲ってきた眠気に逆らうことをせずコートサイドにて昼寝を決め込もうと思っていた。広大な芝生で寝そべっていると、視界に何やら安いオーラをまとった見覚えのある4人組がこちらに向かってくるのが見えた。日大のシュウヘイ、ヤイちゃん、ハル、スグルである。
初対面の彼らは、それはそれは純朴な少年たちであった。社会人の中に混ざってアルティをするという慣れない環境もあってか、表情や言葉遣いがすごく硬く、常に緊張が感じられるような雰囲気であった。 そんないかにも学生らしかった純朴な彼らは、アルティ界で最も遭遇してしてはいけない人物と接触してしまった。
その人物とは、
そう、安さの殿堂・どりんぼ。
チェコという隔離された環境で1週間ばかりどりんぼと濃厚接触を続けてしまった彼らは、徹底的に安さの美学を叩き込まれてしまっていた。それからというもの己の安さに磨くことに余念がない彼らは、寝そべっているわしのそばに来てたずねてきた。
グラサンでカモフラージュしていたので昼寝はバレていないと思ったが、余裕でバレていたらしい。そのため関 越雄先生には「ロキvsボンバーは、ロキが何個かブレイクしてたよ」と雑な報告しかできなかったが、その報告だけで関 越雄先生の求めるノルマは達成できたようで安心した。 会話はすぐに安い方向に流れ、二次予選の「日大vsロキ」の勝敗予想に移った。安さの殿堂・どりんぼはさすがに安い人種の心を捉える発言が的確であり早速こんなことを言い始めた。
どりんぼ「もし日大がロキに勝ったら、俺が全員に焼肉をおごったる!!」
これだけで終わっていれば相当の男気ポイント上昇が見込まれるのであるが、安さの殿堂はさすがにこれだけでは終わらない。
どりんぼ「ただし、俺が選んだ店ね!」 最終的に、男気よりも安い印象の方が上回ってしまうところあたり、さすが安さの殿堂の殿堂たるゆえんである。 そんな会話の中、ふとどりんぼの視線が、近くを通りがかった日大の男子の応援に来ていた女の子(1年生)にロックオンされた瞬間、それに気づいたスグルが「あの子だけはやめてください!まだ1年生なんです!まだどりんぼさんみたいなのの免疫が無いんです!」と懇願した。彼にはまだ理性が残っていることが確認でき、安心した。 その一方で終わっている発言をしている者もいた。 シュウヘイ「その他のだったら全然いっていいですよ」 何がいっていいなのかよくわからないが、一瞬にして後輩の女子たちをどりんぼの生け贄に捧げるという恐ろしい感覚の持ち主である。彼はかなり病魔が進行している。(彼はビーチアルティの試合の際、脱臼した肩を保護する三角帯を装着したまま試合に出るという常軌を逸した行動に出た上、最初は健全な手だけの片手キャッチだったのが、次第に興奮してきたのかまさかの両手キャッチを繰り出していた。このあたりの安さは、さすがにどりんぼ直伝のものを感じさせる。)
安いどりんぼとの口約束はなんだかんだ安い口実でうやむやにされるケースが多発するため、日大がロキに勝った暁には是非この証拠(安い備忘録)を片手にガッチリと焼肉をおごってもらっていただきたい。 がんばれ~! |
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2011 06,12 21:01 |
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2011 06,07 19:33 |
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とあるお休みの日の昼下がり。 新地の河川敷には草フリスビーを楽しむ集団がいた。 咲子、エクストラヴァガンザ、山P、ユリエ、ゆきの、たくちゃん(核爆)。 人もまばらな広大な草原で、事件は起きた。 草フリスビーの集合時間はとてもルーズなため、最初の方は全然人が集まっていない。下手したらフリスビーさえ無いことすらある。 わしはルーズさに輪をかけて大幅に遅れた時間に到着すると、広大な草原の中に圧倒的な存在感を誇る女の姿があった。 そう、咲子。 彼女は大地に片膝を突き立たままの姿勢で静止しており、その様はまるで出走前のジャスティン・ガトリンを彷彿とさせた。その後の彼女の動向に期待させるには十分な迫力であった。 わしが到着したところで5人しかおらずアルティもできなさそうであったので、わしは彼らに「ベジゴルフ」というフリスビーの新種目を伝授した。ベジゴルフとは簡単に説明すると、ペアを組んで、ショットガンタッチとゴルフを合わせたようなルールである。目標地点を定め、そこに向けて1人が走り、相方が投げる。パスが通らなかったら1打追加して同じ場所からやりなおし。そうやって目標に進んでゆき、少ない打数で目標地点まで到達したチームの勝ちという遊びである。 その時のチームは、「咲子・ゆきの・わし」vs「エクストラヴァガンザ・たくちゃん(核爆)」で競っていた。 一通りゲームにも慣れたところで、結構離れた地点にゴールを定め、ゲームスタート! こちらのチームは順調に一投目を進んだのだが、過激なゲインを狙うエクストラヴァガンザ&たくちゃん(核爆)ペアは一投目からミスを連発していた。こちらの一投目の距離まで進むのに四投くらい消費していた。 こちらの圧倒的優位のままコースを進んでいると、越えなければならない障害(←自分たちで設定)のちょうどコース上に、ブーメランパンツのみを装着したオッサンが日光浴をしていることが確認された。しかし、これだけ広大なスペースの中、ピンポイントでオッサンに迷惑をかけるようなことは絶対にないであろうと、誰しもが思っていた。 しかし、事件は起きた。 障害越えのタイミングで、スローワーが咲子、キャッチャーがわしというターンが巡ってきた。寝そべっているオッサンは目の端にチラッと入るものの、咲子とオッサンとの間には金属製のポールやオッサンが乗ってきたと思われる自転車が置いてあったので、まず危険はないだろうと判断。 わしは咲子を信じて走り出した。 バックのオープン巻きでもらえるように右側に膨らみながら走ると、阿吽の呼吸で咲子は渾身のバックロングを放った。 …え? まさかの逆巻き?????? わしは必死に背後から飛んでくるフリスビーを追いかけるが、逆巻きのバックロングはみるみるわしから離れてゆく。そして、フリスビーはうまいことポールをかわし、オッサンの自転車に向けて一直線に突き進んでゆく。 わしの心の声:「うわーこのコース、自転車直撃やん。こりゃオッサンにどやされるな~・・・」 飛んでくるフリスビーを見ていたオッサンはフリスビーが自転車に直撃する瞬間、当然のごとくスクッと顔をそらしてよけようとした。 ガツッ!!!!! しかし咲子渾身のバックロングはそれだけでは勢いを失わなかった。 自転車のサドル付近に直撃したフリスビーは奇跡的な方向転換を見せ、よけたオッサンの顔面に向かって尚も猛進を続けた。 ゴッ!!!!! 鈍い音と共に、咲子のバックロングはオッサンのこめかみにクリーンヒットした。 文句も言えずうずくまるオッサンに、ひたすら平謝りの一同。 よく晴れた昼下がりの草原で起きた、奇跡の事件であった。 その後、オッサンは何も言わずに服を着て、自転車で立ち去ったのであった。ホントすいませんでした。 |
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2011 05,21 15:16 |
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5月3日(火) 5日目 アメリカのアルティメットを体感した日 朝、Golden Gate Hotelで軽食をとった我々は、11:30開始のバークレー方面で行われるピックアップに参加するために乗りなれたBartの駅へ。もうこの頃になるとどの電車がどの方面に行き、途中の乗り換えはどこの駅ですればいいのかなどといったことが「地球の歩き方」などを全く見なくてもわかるようになっていた。 難なく最寄駅のAshby駅にたどり着き、そこからタクシーに乗り込む。この日のグラウンドはEast Bayエリアの海沿いで、グラウンドから海が目の前にあるというロケーションであった。海の向こうはサンフランシスコである。 さて今日のピックアップは事前に特に自己紹介などもなく、スッと混ざってスッと試合開始となった。レベルは以前のバークレーでのピックアップと同様で、そこまで高くなかった。また、我々のフライトによる疲労もとれており、本来通りの力が発揮できるようになっていた。そんな状況でアルティメットの鬼こと志村氏より、「俺は、魅せるプレーをしてみんなを喜ばせるため、積極的にダイブすることに決めた」なる宣言が飛び出し、恐ろしい勢いでダイブディフェンスを連発。また、こちらのチームではゾーンディフェンスをやることになり、それが偶然にもベジでのゾーンと同じ形であった。わしと志村氏でカップを組んだところ、バックアウト寸前まで追い込んだ挙句に、最後にはカップのわしがハンドのスイングをキャラハン。「You are the rule of the zone!」とアメリカ的な大げさな表現で褒められたが、ちょっとやり過ぎたな~とはずかしかった。その後も日本人2人はキュンキュン走りまわり、非常に楽しいアルティができたのであった。 2時頃アルティも終わったところで雑談していると、なんとその中に1人いた女性プレーヤーが“Sat”こと石井さんのことをよく知っているという話に(名前を忘れてしまいました…)。以前一緒のチームでどこかのビーチの大会に出たことがあるとのこと。こんなローカルな場所にも石井さんの名前を知っている人がいるのか!と、改めて石井さんのアメリカでの影響力の大きさを実感したのであった。そのおかげで帰り道は駅まで車で送ってもらってしまい、その女性プレーヤーにも石井さんにも感謝が尽きないのであった。 次の予定は、再びサンフランシスコに戻り、昼食。なぜサンフランシスコに戻ったかというと、なんと後輩のゆきの君が偶然同じ時期にサンフランシスコに来ているとのことで、時間を合わせて昼食をとることにしたのであった。 3時頃にフィッシャーマンンズワーフの観光スポットであるピア39にて合流し、その流れで昼食へ。サンフランシスコ名物(?)のクラムチャウダーをいただいた。ここで摂取したビールが後であれほどまでに自分を苦しめることになるとは、この時点では全く想像していなかった。 多忙な我々は6時半からUCバークレーのグラウンドで、昨日Bart Watson氏から誘われたGoaltimateに参加するため、5時前にはゆきのたちと別れて再びバークレーへと旅立った。 そして、ちょうど6時半頃、グラウンドに到着。フリスビーを投げている集団を発見したところ、午前のピックアップの人たちとは明らかに肉体の構造が違う人種の方々が揃っていた。最初わしはGoaltimateとはDisc Golfのようなものでそんなに走らないものと思いこんでいたのだが、なんだか様子が違う。そして、なんだかよく見るとワールドゲームスのアメリカ代表や、UPAのDVDに映ってたような人たちがぞろぞろ揃っている。 ???ん?僕は来るところを間違えたのかな???? するとその集団の中には昨日会ったBart Watson氏もおり、こっちへおいでよとのこと。そして一通りGoltimateの説明を受けた。Goltimateとは簡単に説明すると、アルティのハーフコートくらいのサイズで行う、アルティ+ホットボックスのようなゲームである。バスケのストリートバスケのアルティ版というとイメージがつきやすいかもしれない。やってみればすぐわかるよ!とのことだったので、程なくGoltimateが始まった。 …。 …。 きつい!とにかくきつい!!!事前のイメージと全然違って走りまくる!しかも相手はワールドクラスの方々!! 午前にピックアップの試合を行い、巨大な荷物を背負って長距離の移動をし、わしに至ってはビールまで飲んだ後であったので、ここのグラウンドにつく頃にはほとんど1日のやることを全て終えたくらいの達成感があったところにトドメのGoltimateである。開始早々に体が悲鳴をあげた。 テキトーなDisc Golf大会をイメージしててのこれなので、その衝撃はあまりにも大きかった。そして、まさかこんなに死に物狂いにプレーしなければならないなんて夢にも思っていなかった。一瞬でも気を抜けばワンツーで走られてスコアされてしまうので、その場の雰囲気的にも気を許すことのできる瞬間が全く無い。 「5点先取!」という声が聞こえ、5点入ったのでやっと休憩に入れると思ったら、ゲームは途切れることなく続いた。既に昼に飲んだビールのせいでゲロを吐き散らかしそうなほどぐちゃぐちゃに疲労しているわしは困惑し、まわりの選手に「え、このゲームはエンドレスなの!?」と聞くと、「そうだよ、5点先取のゲームが連続して8時くらいまでは続くよ」とのこと。 殺人的すぎる…。 しかし、自分がどんな状態であろうと気を抜いた瞬間にやられてしまいチームの足を引っ張ってしまうので、本当に死に物狂いでがんばった。Revolverの選手とか、元Jamの選手とかとプレーができてうれしいとか感慨に耽っている暇など全くなく、生きるか死ぬかくらいの心持ちであった。チラッと志村氏を見てみると、志村氏も半分死にかけている顔をしていらした。 しかしこのGoaltimateというゲームはスピード感とタイミング(ストーリングカウント6から入るため)がものをいうので、自然とアプサイやスクーバなど普段あまり投げないスローの機会が多かった。この2時間だけで一生分のスクーバやアプサイを投げたのではないか。自分だけではなく周りもそうだったので、普段のアルティとはまた別のスペースの使い方が求められ、また狙いもいつもと違うものであった。特にシュートの際にはみんなキチガイみたいな速度のチョップなどを平気でブン投げてくるので、わしは幾度となく頭をカチ割られそうになった。こんなのを週に2回もやってれば、そりゃ体力もつくわスロー力やキャッチ力がつくわという感じであった。日本でも、練習のスペースがなかったり少人数だったりしたら是非取り入れてみたいと思った。そういう意味でとても良い経験であった。 半分記憶が飛ぶくらいつらかった、2時間に及ぶGoaltimateが終わった瞬間、わしは読んで字の如く大の字に地面に倒れ込んだ。そのまま5分くらいは停止していたことだろう。練習後に元JamのGabeなどと話してみたいと思っていたのだが、彼らは練習が終わると特にダウンをすることもなく早々に帰ってしまった。彼らにとっては慣れた運動だから特に疲れたりはしないのであろうか。その一方で全く慣れない運動に疲弊しきった我々は帰る支度ができるまでに30分以上かかってしまった。まだポツポツ残っていた選手がいたので、日本から持ってきたおみやげの笹団子を振舞った。しかしその大半はエネルギー切れが甚だしかった我々で食べてしまったのだった。 結局グラウンドを出るのは夜の9時になってしまった。そしてここはバークレー。宿はサンフランシスコにとってあったので、その移動がまた絶望的であった。限界まで疲労しているところに20kgの荷物を担ぎ、駅まで徒歩20分。そこからBartで20分。そこからタクシーで15分。想像するだけで途方に暮れそうになった。とりあえずバークレーの駅近くで夕飯のためカレー屋さんに入ったのだが、わしはあまりの肉体疲労で米粒10粒くらいしか口に入らなかった。 なんとかかんとか宿に辿り着いた我々は、最終日である明日の予定を何もたてる気力が起きないまま、泥のように眠りについたのであった。 サンフランシスコでやり残したことはもう何もないと感じさせる、凝縮された一日だった。 |
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2011 05,20 11:02 |
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5月2日(月) 4日目 アメリカの風早くん 月曜日は週の初めのためか、興味深いピックアップがなかったため観光の日とした。朝にバークレーを出発し、サンフランシスコの中心地である坂がいっぱいある通り(Powell Street)付近を中心にフラフラした。まず宿は「Golden Gate Hotel」という老舗っぽいホテルを選んだ。ホテルのロビーには看板犬と看板猫がおり、極めて人懐っこくておとなしいため、これまで数多くの観光客に撫でちらかされたことが想像される。当然わしも撫でちらかした。またエレベーターも非常にアンティークなもので、手動の二重扉を両方とも手で閉めてからボタンを押すような、初めて見るものであった。ここのホテルのオーナーはおじちゃんとおばちゃんはとても人が良さそうな方たちで、とても親切に対応してくれた。サンフランシスコに来たら、是非「Golden Gate Hotel」に! この日はひたすら観光した。名物のケーブルカーに乗り、観光名所のフィッシャーマンズワーフを散歩し、シティーホールという市役所みたいな建物にも入った。ただ1点わしの誤手配でサンフランシスコジャイアンツの試合を観にスタジアムまで行ったら別会場での試合でBaseballを見ることができなかったという失敗があった。 そんなこんなで夜の時間になり、我々は小腹を満たすためBartのPowell駅近くの「Lefty O’dnel’s」というベースボールバー&レストランみたいな店に入った。コテコテの内装がいかにも観光者向けといった感じだったが、観光者の我々にはとても刺激的な空間であった。 その店で、わしはそわそわしていた。なぜなら、もう少ししたら2010シーズンのRevolverのキャプテン、Bart Watson氏が合流する予定であったからである。そわそわしまくっていると、遂にその瞬間がやってきた。3月に幻のドリームカップのために来日した際に会って以来、約1ヶ月ぶりの再会である。いろいろ積もり積もった話や、先日のRevolver練での失態の懺悔など、会話は止まらなかった。というのも、わしの英語が上達していた訳ではなく、Bart氏がホント誠実に我々の話すことに耳を傾け、ぐちゃぐちゃな文法の英語を理解しようとしてくれていたのである。また、彼の英語のスピードは速いものの、内容はアメリカを知らない日本人でもわかる話題を選んで話してくれているようであった。そんなこともあり、とても気持ちよく会話させてもらった。そこで、翌日5月3日の18:00からUCバークレーのグラウンドでGoaltimateをやるから来ないかい?と誘われた。もちろん行かない訳はないのだが、後にあんな大変な目にあうとはこのときには夢にも思わなかった。 一通り食事も終わったところでBart氏は、「じゃ、次のBARに行こうか!」と、我々を次の店に連れて行ってくれた。そこはLefty O’dnel’sからほど近い場所にある、「Golden Gate Bar」という、バンドがライブ演奏しているBarであった。サンフランシスコでは最も老舗のBarとのことだ。店内は非常に陽気な雰囲気に包まれており、音楽もその雰囲気にピッタリでとても気分がよかった。そんな激シブな店でビールを一杯飲んだところで、「近くでDamianやJ.Z(元Jamの選手)とかが集まって飲んでるみたいだけど、合流するかい?」との提案があったため、二つ返事でOK。次の店へと向かった。 次の店は少し離れた場所にあった。なんか見覚えある景色だなと思ったら、どうやら初日に行ったBeauの家に若干近いらしい。サンフランシスコでの距離感がなんとなくわかってきた。 店は郊外にあるローカルなBarで、何という店の名前かも覚えていない。そこにはDamianなどアルティ選手が4人ほどいた。テキトウに話していると、Bart氏はIrish Coffeeという、サンフランシスコ発祥のカクテルを教えてくれたので、早速注文。コーヒーリキュールにクリームを混ぜるカクテルで、その味は甘党ぅーのわしの心を捉えて離さなかった。茅ヶ崎の斉藤さんちで注文したいメニューが1つ増えた。 そのBarで見ていたNBAのLakers vs Mavericksが終わったところで、我々も帰ることに。Bart氏の車には(あれ?)我々の他にJ.Zも乗り、J.ZもBeauとDamianと同じ家の住人なので途中で降ろしつつ、Golden Gate Hotelへと向かった。 Bart氏と会ってからものの3時間くらいしか一緒の時間を過ごさなかったが、彼の親切を感じるには十分すぎる時間であった。一気に彼のファンになったことは言うまでもない。 |
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2011 05,18 17:57 |
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おまたせしました。
写真を公開しましたよ!! いつものごとく、名前間違ってたらすいません。 左のリンクの中の、「2011年ビーチアルティ」から進んでくださいな! |
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