2025 05,17 05:29 |
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2011 11,14 18:11 |
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高校2年生の終わりから、わしはホッケー部の主将となった。1年生も8人くらい入り、晴れて大会に参加できる資格を得た。
そして高校3年生の6月、最後のインターハイ・県予選を迎えた。わしはわしなりに主将としてチームの運営を改善した。同系列の付属校のチームと合同練習を行ってもらったり、これまで1度もなかった他校と練習試合を組んだりと、いろいろなことを始めた。定期的に他校と練習や試合をすることで、自分たちの実力を見直すことができたり、それによってどんなところを強化したらいいのかと考えられるようになった。普通の部活では当たり前のことだと思うが、それが当たり前でないほど頽廃していたS高ホッケー部にとっては全てが改革でありチャレンジであった。しかしその一方でチームとしてがんばる方向に部員を引っ張ることは大変なことであった。 そうやって半年弱という短い期間であるが、チーム改革を行った我々は2年ぶりの公式戦に出場した。 対皆野高校 0-13 対飯能高校 0-6 2年前に戦ったより点差は縮まったものの、やはりまだまだその差は大きかった。残された公式戦は飯能南高校だけとなった。 飯南はこれまで部員数が少なくて活動ができていなかったというチームである。逆に我々が活動できなかった去年から復活していたようで、そういう意味ではチーム環境は似たものがあったかもしれない。ここ1年の活動の差で勝敗が決まるといっても過言ではないので、我々は、我々なりに、気合を入れて試合に臨んだ。 初めて、対外試合で手応えがあった。チームとして別格の完成度を誇る先の2校と違い、飯南とは互角に戦うことができた。もちろん圧倒することはできないまでも、我々のホッケーでも通じるところは通じた。70分全力で戦った。 対飯能南 1-0 最後の公式戦で勝利した。わしからのラストパスを後輩のフジタがゴールにねじ込んだ。3年間で最初で最後のS高のゴールシーンは、意外とあっさりとしたものであった。それにしても3年越しの1点は遠かった。そして、S高校の公式戦勝利は5年ぶりくらいとのことであった。 県予選敗退は変わらないのだが、弱小S高ホッケー部でも努力すれば変わることができると希望を持つことができる敗退であった。 それから3ヶ月経った9月、監督から吉報が伝えられた。皆野高校の監督に先般の公式戦での戦いぶりが認められ、S高の3年生であったわしとゲヴォさんが、国体に向けて埼玉県代表チームを結成するための県代表セレクション試合に招待されたのだった。 県代表・・・。夢にまでみた皆野高校や飯能高校の選手たちと一緒にプレーできるかもしれないということで、わしの気持ちはそれはそれは高ぶった。日頃の練習により一層の熱を入れたことはもちろん、自主的にランニングをしたりして、セレクション試合に向けてコンディションを高めた。 そのセレクション試合にて、ゲヴォさんがその名の由来ともなる史上空前の破壊活動を炸裂させたことにより、わしの夢と希望は戦わずして、水の泡と消えた。 セレクション試合は開始からたった5分、グラウンドの周囲で我々の雄姿を観戦していた女子高生たちから叫び声があがった。わしは、県代表レベルになるとこうもファンができて黄色い声援が届くようになるのかと気分が高揚してますますやる気がみなぎってきた。しかし、その叫び声、もとい悲鳴はプレーとは全く関係ない場面なのにしばらく続いており、わしは一抹の不安を覚えた。すると突然、ピピーーと審判が鋭い笛の音を鳴らした。 審判:「試合を中断します!!」 !!!?????? えっ??こんな晴天なのに雷でも落ちたのか!?????? 訳のわからぬ状況の中キョロキョロあたりを見回してみると、どこから現れたのか、自陣ゴール前には10人前はあるもんじゃが広がっていた。信じられないことに、セレクション試合というプレッシャーに耐え切れなくなったゲヴォさんが、ゴールキーパーの防具を装着しゴール真正面に鎮座したまま、ヘルメットの中から大嘔吐なされたのであった。5歩くらい移動して、せめてゴールの裏で吐けばまだ試合自体は続行できただろうものを、彼は自らが没するまでゴールを守り続けた。彼がいなくなっても広大な毒池が広がっているため、誰もゴールを割ることもできないし、割ろうとも思わない。真の守護神とはこういうものなのか。 没収試合になった後にコート裏でなぜかわしが皆野・飯能の選手に囲まれて大変な目にあったことは忘れられない思い出である。わしが大変な目に遭っている間、ゲヴォさんは涼しげな日陰でドヤ顔のまま安静に横になっていた。壮大に広がるゲロの池を、せっせと後処理するトドコーチの背中は、とても小さくて、悲壮感が漂っていた。。。 せっかく訪れたチャンスをまさかのチームメイトにより打ち砕かれるという悲運も、まだ神様は我々を見捨てていなかった。毎年11月頃に行われるホッケーの早慶戦の高校生の部に、「オール慶應」のメンバーとして招集されたのである。なぜか召集メンバーにゲヴォさんも含まれており、その件に関しては甚だ疑問ではあったのだが、「ゲロを吐きたくなったらせめてコート外で吐きやがれ」とアドバイスしておいたので、今回ばかりは晴れ舞台を完全破壊してくれることもないだろう。 そしてわしは両親を試合会場に招き(高校3年間で初)、J高のメンバーに混ざって慶應代表として早慶戦に臨んだ。 ALL慶應 8 – 0 早稲田 完勝であった。周りのメンバーが頼もしく、わしも2得点を挙げることができた。ゲヴォさんもこの試合では粗相がなかった点では成長がみられた。 その試合をもって我々3年生はホッケー部を引退となった。最後の最後に活躍をみせた我々は、S高ホッケー部の監督から熱心に大学の体育会への入部を勧められ、大学の監督からも事あるごとに勧誘された。 ホッケー一筋で高校3年間を過ごしたわしは当然体育会への入部を決意し、青春時代の夢を共に追いかけた同志ゲヴォさんはラーメン研究会と天文観測同好会への兼部を決意した。 しかしながら、華々しい大学ホッケー生活が待っているかと思いきや、人間関係のいざこざにより半年で退部を決意。 大学生活での目標を失ってから2ヶ月経った大学1年生の11月、わしは家の机の上にふとハスキーズのパンフレットが置いてあるのを見つけたのであった。 PR |
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