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2011 05,13 17:12 |
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5月1日(日) 3日目 ピックアップ in Berkeley 今日は午前と午後で、ピックアップゲームのダブルヘッダーである。午前の部は11:30からBerkeleyからさらに東に電車で15分ほど行った、Walnut Creek(以後ウォルナッツ)という場所で行われるとのこと。9:00頃チャイナタウンを出発し、最寄りのBartの駅へと向かった。サンフランシスコの中心地の特に駅周辺には浮浪者が多くいるのだが、道中驚くべき光景を目にした。バス通りのような比較的広い道の歩道を歩いていると、前方に歩道を横断するように堂々と寝そべっている人がいた。だんだん近づいてくると、おや??と思うことがあった。彼が着ている服、どこかで見たことがある…。紺と緑と黄色のトミー柄のジャケット…。 横柄なまでに路上に肩肘をついて横たわり、無造作にピッツァを召し上がっている方は、、、 そう、どりんぼ そんな奇跡があるのかと思って後ろから「おいおいどりんぼ、こんなところで朝食かよ!!?」と声をかけようとしたところ、よく見たらただのどりんぼと同じ格好をした浮浪者であった。それ以来サンフランシスコの浮浪者のことを「オトモダチ」と呼ぶことにしたことは言うまでもない。 さてさてそんな界隈を抜けてBartの駅に到着。一路東へ。20~30分くらい電車に乗りウォルナッツに近づくにつれて、これまでのサンフランシスコとは風景がガラッと変わり、山と緑に囲まれたのどかな風景がひろがった。サンフランシスコが日本の新宿や渋谷だとすれば、ウォルナッツは辻堂といった感じだった。ザ・アメリカの日常といったような街並みの中を歩き、目的地の公園に到着。遠くにフリスビーが飛んでいるのが見えるが、どう見ても2人しかいない。とりあえずその2人に話しかけてみた。 わし:「こんにちは。今日ここでピックアップゲームやるって聞いたんですが??」 アマン:「こんにちは。今日この公園は養生のために閉鎖だから、ピックアップは別の場所でやってるんだよ。ここから6~7マイル離れてるから、車でないとキビシィね。君たちは歩いてここまで来たのかい??」 ガビーソ、別の場所~。。。タクシーを拾えば行けなくもないが、時間もお金ももったいなかったのでここでスローして遊ぶことにした。2人の名前はアマンとデイブ。以前大学時代にアルティをやっていたが、現在はクラブチームなどではプレーしていないという。 とりあえず4角形になってテキトウにスローをしていると、アマンがいきなり技を繰り出してきた。サムネイルと呼ばれる(?)、親指にディスクのふちをひっかけてアップサイみたいに投げたり、バックハンドみたいに投げたりする投げ方である。我々日本人があまりうまく投げられないからか熱心に教えてくれていたのだが、 アマン:「Ouch!!」 突然アマンが手で肩を抑えどこか遠くのほうに歩いて行ってしまった。 デイブ:「ショルダー??」 アマン:「Yeah.」 あまりに無邪気に投げ過ぎてしまったため、肩の古傷を痛めてしまったらしい。5分ほど離脱したアマンは、再び戻ってきてスローに加わった。 わし:「やっぱしその肩は、アルティでダイブしたときにやってしまったんですか??」 アマン:「いや、スキー滑ってて脱臼しちゃってね。Hahaha。」 どこまでもお茶目なアメリカンであった。アマンとデイブのやりとりがあまりにも我々の想像するアメリカンコメディだったので、ピックアップゲームのことも忘れて遊んでしまった。 しばらく投げていると警官がやってきた。 ポリスマン:「この公園は今日はクローズしてるから入っちゃだめだよ。」 わし:「…(あ、それさっきアマンも言ってた気がする)。」 アマン「Hahaha,、ごめんよチームスポーツだけがダメなのかと思っていたよ。すぐにずらかるよ。」 アマンはホントにいいダチ公であった。そしてホントにいいスマイルをしていた。 ポリスが来たところでスロー遊びもお開きとなり、彼らと別れて次のピックアップに向かうことにした。 午後のピックアップは、サンフランシスコとウォルナッツの間くらいにあるバークレーにて4:30から行われるとのことだった。先のウォルナッツでピックアップがなかったたためだいぶ時間を持て余した我々は、昨日に引き続きUCバークレー校のキャンパスツアーに繰り出した。 UCバークレーは、スタンフォードとはまた違った趣があった。スタンフォード程の派手さはないが、森のような木々に囲まれていてとても閑静な環境であった。しかし大学グッズ売り場はここでも健在で、なんと3階建ての建物丸々一棟が大学グッズのための売り場であった。ここでも様々なスポーツメーカーとコラボした商品が売られており、大学スポーツの盛り上がりもすごいんだろうな~と思ったのだった。 キャンパスツアーの後は、いよいよピックアップである。キャンパス付近でタクシーを拾い、やくざなおばさんドライバーの相手をしながら少し走ると、いかにも町にあるグラウンドといったようなグラウンドに到着。フリスビーが飛んでいるところに向かった。 35~45才くらいの少し年齢層の高めのおじさんたちが15人くらい集まり、ほどなくアルティが始まった。名前は忘れてしまったが、以前横須賀に住んでいて茅ヶ崎のことを知っているとっつぁんがいて驚いた。志村氏が、「横須賀ということは、彼は海軍出身なのではないか!!」と、鋭く推測していた。その推測があたっていたのか、そのとっつぁんはとにかくビシバシまわりに指示を下していた。おまえら俺のアップサイを狙いやがれい!とか、ディフェンスをもっとタイトにつきやがれい!とか、次のセットはゾーンをやるからおまえカップに入れい!!など、ビシバシ指示された。ゾーンのカップって、一体何のゾーンやねん!という感じだったが、全体的にさほどレベルの高くないピックアップだったので、ほどほどに様子を見ながら楽しんだ。鬱陶しいことにたまに志村氏が自分のディフェンスについてきて、ここはバークレーなのにあたかも柴又での練習が如くガチで止めにきていらした。 約2時間ほど、休憩なしのノンストップで延々とアルティをした。終盤になるとおじさんたちの足は完全に止まってしまい、元気に走っているのがわしと志村さんだけといったような状況になり、「You are the scoring machine!」という「え、得点板!??」みたいな雑な褒め言葉もいただいた。雑といえば、その時ハスキーズのユニを着ていたため、「みんな犬にディスクを投げるんだ、ワンワン!」という雑なギャグのネタにも使われた。とてもロハスなアルティであった。 アルティが終わり、日本で買ったおみやげをみんなに配ったりしていると、先ほどのとっつぁんがやってきて、「わしのディスクを受け取れ!そして裏にメアドが書いてあるからメールしろ!」とばかりに、現地のディスクをくれた。お返しに自分が持ってきたディスクを渡そうとすると、「気遣い無用!さらば!」とばかりに、颯爽とどこかへ消えていった。 その日の宿はBartのSouthern Berkeley駅近くの中華系ホテルみたいなところをとった。安い割にキレイで、アルティ系男子には何も問題のないクオリティーであった。夕飯は志村氏による、「軽くスポーツバーのようなところで1杯ひっかけてから、ハシゴしちゃう?」という男気溢れる提案が採用された。シーフードの揚げ物のようなおつまみと、ザ・アメリカなピッツァのコラボレーションはとても心地よいものであった。良い気候でビールもうまかった! そんな平和な5月1日。 PR |
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2011 05,12 17:48 |
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4月30日(土) 2日目 Revolver練 Revolverの練習はサンフランシスコより南の地域にある、スタンフォード大学のグラウンドで行われるとのこと。練習開始は10:30とのことだったので、結構朝早くBeauの家を出発する必要があった。 出発前にWoodyやDamianに挨拶していこうと思ったが、朝8時くらいにはまだ全く動きだしていなかったようで全く人気がなかったので、やむなくそのまま家を出ることにした。もちろんWoodyへのお礼メールでフォローしておいた。 サンフランシスコからスタンフォードのある「Palo Alto」へはCal Trainという、昨日乗ったBartとはまた別の種類の電車に乗る必要があった。Cal Trainの駅周辺のカフェで朝食を食べたのち、Cal Trainに乗り込んだ。土日の運行は1時間に1本しかないということを知らず、9:15サンフランシスコ発の電車に乗ることになってしまった。Palo Alto駅へは約1時間の乗車時間のため、せっかくのRevolver練なのに遅刻がほぼ確定。車内にてRyo Kawaoka氏に詫びメールを入れた。 約1時間、西海岸の素敵な風景を見ながら南下。Palo Alto駅に到着。Palo Alto駅からスタンフォード大学は徒歩5分くらいでたどり着けたが、その敷地面積のスケールのでかさに驚愕!!!校門からグラウンドまで、軽く徒歩20分はかかった気が…。そんなこんなで、約1時間遅れの11:30過ぎにRevolverの面々のいるグラウンドに到着。あからさまに体格がいい人がいっぱいいる集団が見えたので、すぐにわかった。 Revolverの人たちはダッシュなどの体力練をしている最中だったが、その横でいろいろ指示をしているコーチらしき人に声をかけてみた。「日本から来たんだけど、練習混ぜてもらえますか??」一応Ryo Kawaoka氏とは連絡をとっていたものの、いきなりこんな雑なお願いをした日本人を快く迎え入れてくれた。10分くらいでアップして、チームに合流。いきなりの紅白戦であった。こちらのリーダーはRobbie Cahill氏。うわー、DVDで見たことある~とか思っている暇もなく、戦術の説明。今シーズンRevolverは“サイドスタック”というフォーメーションを積極的に練習しているらしく、その理論について説明を受けた。もちろん説明は英語だったし、サイドスタックは初めての体験だったので、ミドルに入ったわしはとりあえず邪魔にならないためスペースをあけての裏の合わせに徹した。やはりアメリカらしく、みんなガシガシオープンサイドに仕掛けていくので、わしはいい感じで彼らの仕掛けの次のインサイや裏でパスをもらうことができた。2、3本そつなくパスを捌き、遂にやってきました絶好のチャンス。かなり深いインサイドアウトでパスをもらってからの、渾身の裏バックロング!!アメリカ本土での初バックロングが通った!!Robbie Cahill氏に「Good working!」と褒められましたでへへ。 しかし調子が良かったのも最初のうち。慣れないロングフライト直後だったためか、一度息があがったら全然呼吸がなおらないし、それよりなにより足が鉛のように重くなってきてしまい、全く思い通りに走れない!オフェンスではそれなりにごまかせたものの、ディフェンスではボロボロだった。ガビーソ。 紅白戦の後は、エンドゾーンくらいのエリアの中での3対3。これはきつかった!!みんなガシガシワンツーに走るし、オフェンスでも少人数だから手が抜けないし、最悪のコンディションの中まさに地獄であった。あまりに呼吸が苦しくて目の前はピカピカ光ってくるわ、足は全然動かないわでひどく迷惑をかけてしまった。そして、世界のMac Talor君とマッチアップしている最中、サイドロングを投げたときの踏み込みの瞬間に、まさかの右足が激攣り!!こういう時の英語を知らないので「しぇ~~!!」と悲痛な叫びをあげているとみんなが集まってきて、Mac Talor君が介抱してくれた。まじ情けない…。 3対3の後は、再び7対7の紅白戦。引き続き息は苦しかったし足は重かったものの、それなりにこなした。必死だったためあんまり記憶はないけど、なんとかゴールもしたっけな?? 紅白戦が終了したところで、本日の練習は終了。「今日参加してくれてありがとう、日本からのゲストもありがとう」みたいな挨拶の後、みんなで円陣を組み、「1,2,3 Revolver!」。ガイジソの声だしはなんでだかサマになるなぁ。 Revolver練の後は、スタンフォード大をキャンパスツアーした。果てしなく広大なキャンパスをひたすら歩き、美術館(なぜキャンパス内に!?)やブックストアー内にあるキャンパスグッズ売り場などいろいろ巡った。キャンパスグッズ売り場は日本のそれと比べケタ外れに広く、まるで日本の学校の体育館くらいの面積はゆうにありそうな程であった。ナイキやチャンピォンやアンダーアーマーなどのメーカーとコラボしてグッズを販売しており、アメリカの大学グッズ市場の大きさを感じたのであった。少し憧れたが、日本とアメリカでは経営の規模にあまりにも違いがありそうなので、何事も同じスケールでは測れないなというのが正直な感想である。キャンパスは緑豊かであり、ミントのような素敵な香りがわしのRevolver練でのガビーソな思い出を癒してくれた。 キャンパスツアーをしているとなんだかんだで夕方くらいになってしまい、再びCal Trainでサンフランシスコに向かった。市街地の中心に程近いチャイナタウン内にあるホテルに入り、とりあえず今日身を落ち着かせる場所を確保した。アメリカにはよくあるタイプのようなのだが、バス&トイレが他の宿泊客と共用であった。 その日は特にこの後用事があったわけではないので、とにかくチャイナタウンを中心にプラプラ散歩した。土曜日であったためかお店がことごとく早い時間に閉まっていた。街を歩いていると、あからさまにいい味を出している「International Food Court」という看板があり、その奥にある野外のフードコートに侵入し、その中でなぜかイタリアンを食した。ひたすら2人でRevolver練での反省を述べあい、「また機会があったらリベンジしたいね」と傷を舐め合ったのであった。 |
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2011 05,11 16:52 |
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4月29日(金・祝) 出発の日 待ちに待ったこの日だが、モーレツリーマンでおなじみのわしはこの日は夕方まで出張業務であった。 朝からスーツ姿で15kg以上ある荷物を背負い、途中横浜駅の大型コインロッカーに巨大な荷物を叩き込んでから出張先であるパフシコ横浜へと向かった。 特に問題もなく業務は終了し、職場の方たちと軽く打ち上げをしてから、いざ羽田国際空港へ。横浜から羽田は意外と近く、22:00チェックインの1時間以上前に着くことができた。 羽田空港で今日の業務で着用していたスーツを自宅に送ったり、おみやげを買ったり、江戸小路なる和のテイストを前面に押し出したシャレオツスポットを闊歩したりしていると、今回の旅仲間である志村氏がやってきた。 程なく2人でチェックインし、特に何事もなく深夜00:20にサンフランシスコ行きの飛行機は離陸した。 約9時間後、無事にサンフランシスコ国際空港に到着。現地時間は日本より1日遡るため、4/29(金)の17:30くらいだった。始めて見るサンフランシスコの眺めは、広かった。高い建物がほとんどないため、ほぼ地形の形そのままを見渡すことができた。 サンフランシスコではレンタカー移動を計画していたため、空港内にあるレンタカー屋へ。慣れない英語に悪戦苦闘しながらも一番安いプランの見積りを出してもらうと、「6日で$950」とのこと。。。高すぎる。。。志村氏と相談の上、レンタカーは見送ることに。急遽サンフランシスコのローカル電車「Bart」での移動を決めた。 4/29の宿は、Beauのシェアハウスに泊めてもらうことになっていた。が、Beauはしばらく外出中とのことだったので、代わりにルームメイトのWoodyが自分たちの面倒をみてくれることになっていた。Woodyは元Jamの選手で、自分たちとは全く面識がなかったのだが、とても気を遣ってくれた。空港からの道順とか、「車で迎えに行ってあげようか?」など、こと細かに連絡してくれたためとても頼もしかった。 結局Beauの家の最寄駅「16th Street, Mission」までBartで移動し、そこからGoogleMapさんを頼りに20分くらいかけて歩いておうちに到着。家の前でウロウロしていると、中からWoodyが出てきて、招き入れてくれた。「俺の家を自由に使ってくれ!」というような、日本的なおもてなしとはまた違うアメリカンな気遣いをしてくれた。シェアハウスは2階+地下でBeauの部屋は地下にあり、我々は留守中のBeauの部屋を使わせてもらうことになった。Beauの部屋は6畳一間くらいの大きさで、巨大なベッド以外には特に生活感を感じるようなものは置かれていなかった。必要最低限の服や、ユニなどが雑然と置かれているという感じだった。 とりあえず荷物をおろしたところで、シャワーを借りた。シャワーから出ると、新顔の男女がいた。Damian(元Jamの選手)とTara(ツァイストガイストの選手)だった。Damianはこのシェアハウスの住人であり、Taraはサンフランシスコの北に車で3時間くらいのところに住んでいるらしく、今日は遊びに来たのだという。 そんなこんなしていると、Woodyから「みんなで外出するが、おまえらも来るか!?」みたいなことを言われたので、オフコース。家について間もなくすぐに外出することになった。家の外に停めてあったDamianの車に乗り込み、どこかへ連れて行かれた。初日には全く地理感覚がわからなかったが、後で思い返してみるとどうやらサンフランシスコ中心地だった模様。都心の野外シャレオツバーみたいなところにたどり着くと、そこには見知らぬガイジソがいっぱいいた。わけもわからず彼らと相席になり、そのうちの一人に「Woodyとはどういう関係なんですか?」と聞いてみると、「俺らはWoodyの仕事仲間なんだよ!」とのこと。連れて来てくれたDamian&Taraですら若干アウェーな雰囲気なのに、我々しょぼジャップ×2は成す術なし。まさかいきなりアルティ関係者以外の人と英語で一般的な雑談をすることになるとは夢にも思わない展開で、なんだかよくわからない雰囲気の中サンフランシスコ初の夕飯を食す。 「じゃあ俺は出かけてくるから、楽しくやってくれ!」と、Woodyまさかの突然の退席!!え??いわゆる放置プレイ???するとDamian&Taraも帰宅モード。「俺らは帰るけど、君たちは残っていくかい?」残るわけが無い!!ホントに家に帰れなくなってしまう!いやいや、わしらも帰ります!との意志を必死に伝え、Damian&Taraと共に帰宅。 いやー、大変な夕食だった~と一息ついているところに、RevolverのRyo Kawaoka氏より、「明日のRevolver練に来てもいいよ」との連絡が。翌日の予定も決まったところで、サンフランシスコ初日の就寝となりましたとさ。 地下にあるBeauの部屋は外と直結しているガレージの隣にあったため、夜はかなり冷えた。わしはBeauのベッドで寝かせてもらったが、武士道精神の男志村氏は床に転がって寝ていたため、大そうお冷えになったとのこと。床でガクプルしていらっしゃった。 |
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2011 02,11 17:05 |
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ハスキーズの歴史に、あまりに凄惨な事件であったため、語られることがタブー視されている出来事がある。 今回、皆の記憶から薄れ闇に埋没してしまうことの方が危険であると思い直し、わしは勇気を振り絞って筆をとった。 それは、2006年3月に行われた園遊会でのこと。 園遊会とは、卒業してしまう4年生が主催し、下級生たちと学生最後の交流を楽しむイベントである。ちなみに、2006年の園遊会は、負の遺産と呼ばれる12代目の我々が主催した。 場所は伊勢原の山奥にあるキャンプ場。夜になると1m先も見えなくなるような漆黒の闇に包まれる、現実と隔離された空間であった。 我々の代以前にも何度かこの施設は使わせてもらっており、毎年多くのハスキーズの選手が帰らぬ人となった。自らの寝ゲロが吐き散らかされた上でローリングしてしまったため、髪の毛をゲロでトリートメントしてしまった者(通称:ゲロトリ)など、あろうことか20代前半のうら若き乙女たちも数々の醜態を晒していた。女子ですらこのような有様であるので、男子に至っては説明の必要はないであろう。 そんな地獄絵図を何度か経験した上での我々の主催であったため、だいたいの事件は想定できていたし、それらの対処についても準備万端、迅速な対応をとることができた。 が、1件だけ、誰も想定し得ない事件が起こってしまった。その現場を目撃した数名の男たちは、あまりの事態に口を開けてしばらく停止してしまったほどである。 その事件の犯人は、「将軍」と呼ばれていた、我々1コ上の代の先輩である(4年生が後輩をもてなす会なのに、なぜか先輩が混入している事態も、よく考えるとおかしいが)。将軍さんは、なぜか果敢にもOBとして単身園遊会にぶっ込んできた。この時点で、変わり者であることが想像できる。将軍さんは、アルティ界では100%「ハルオ」で通っているわしのことを、最初から最後まで「ヨシタカ君」と呼んでいた点からしても、やはり変わり者である。 将軍さんは、唯一のOBであったので、それはそれはもてなされた。どこに行っても飲まされるターゲットになったし、モリンボお得意のゲーム飲みにもしっかり参加されていたため、未知数のアルコール量を摂取されていた。しかし飲んでいる時は非常にご機嫌であり、そのテンションは夜が明けるまでずっと落ちることはないのではないかと思われた。 基本的に園遊会にはタイムリミットはなく、夜が明けるまで飲み続け、翌朝11:00頃に下山する。なので途中で朽ち果てていく者は寝部屋に叩き込まれてゆくものの、卒業する4年生を中心に、多くの者が徹夜していた。 確か、午前3時くらいまでは、わしは将軍さんの存在を認識していた。屋外に飯盒炊爨(はんごうすいさん)ができるスペースがあり、そこで水炊きなどして火にあたりながら語っていた気がする。(話はそれるが、その場に同期の塩という女がそれはまたグデングデンに酔っぱらっており、名前が挙げられた全てのドラゴンボールのキャラクターを演じてくれていた。案の定彼女はその後寝部屋に投入されたが、朝目覚めてもグチャグチャな泥酔状態であった。何度も道中のトイレを散らかし回した揚句、帰宅後2日くらいピクリとも動けなくなったという。) そしてある時、今まであれだけテンションの高かった将軍さんの気配が全く無くなった。少し不安にはなったものの、まぁ先輩だし、自ら寝部屋に行ったのだろうと、特に姿を探すことはしなかった。 その後、夜も明けたくらいでわしは仮眠をとったかそのまま徹夜したかはあまり覚えていないが、なんだかんだでチェックアウトのAM11:00が近づいていた。 ここは山奥のキャンプ場であるので、基本的に全員車で来る。なので、帰りの配車を決めなければならなかった。 そこで気付いた。 将軍さんがいない。 我々は先輩を探した。あれだけ泥酔していた上に、夜は完全に漆黒に包まれるため、迷子になってしまったのではないかと非常に焦った。地理的に、迷子というより遭難になってしまう。最悪の場合、もしかしたら…。 あらゆる所を探して回ったが、どこにもいなかった。皆が途方に暮れたその時、一ヶ所だけ探していない場所があることを思い出した。 「開かずのトイレ」 キャンプ場のような場所であったので、トイレはコテージから少し離れた建物にあった。そしてその建物にはトイレがあったのだが、そういえば片方は『使用禁止』となっていた。 まさか。 ダメもとでトイレへと向かった。前見た時には完全に閉まっていた『使用禁止』のトイレの扉がかすかに開いていたが、何かに引っかかって開けることができない。全く生きものの気配はしないものの、そっとその隙間から中を除いてみた。 すると。 完全に生命活動を停止した将軍さんが、洋式便器にお座りになっていた。そして、明日のジョーのエンディングの如く、ぐったりとうなだれていた。 探しに来た一同はひとまずホッとするとともに、将軍さんの救出活動に入った。いくら外から呼んでも微動だにしなかったため、強引に押し入ることにした。扉は将軍さんの足にひっかかっていたみたいだが、少し押すとすぐに開けることができた。 まず先に突入したドリンボが、悲鳴をあげた。 蛇にでも噛まれたか!!?と思ってわしも急いで中に入ると、そこには信じ難い光景が広がっていた。 人糞が、いっぱい地面に落ちていた。 !!!!!!??????なぜ!!? だって将軍さんは、便器に座っているではないか!!!?????? 想像すると、泣けてきた。あまりに泥酔した将軍さんは便意をもよおしたため、トイレに駆け込んだのであろう。しかし誰かが使用中であったためしばらく外で待っていたのだが、あまりの泥酔のため肛門のコントロールを失ってしまい、「もうだめぽ!!」というところで『使用禁止』のトイレに駆けこんだのであろう。しかし理性に反して肛門は本能に従順であり、ズボンを下ろしている間にスパークしてしまったに違いない。そしてそこまではなんとか理性を保っていた将軍さんもそれをスイッチに意識がブチ飛んでしまい、そのまま崩れるように洋式便器に倒れ込み、そのままお亡くなりになったのであろう。 涙が出てくるストーリーである。どれだけ苦しかったであろうか、想像に難い。 生気を失った将軍さんはまるで物体が運ばれるように車に押し込まれ、本人の意思とは全く関係なく家路に着きましたとさ。 |
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2011 01,17 17:16 |
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車は、文明の象徴であり、今の時代では誰にも欠かすことのできないものである。しかし、便利である一方で、使い方を誤ると人間すら簡単に傷つけてしまう恐ろしい凶器となってしまう。 わしは、自分は絶対に大丈夫と思っていたが、遂にその慢心が祟ってしまった。 人身事故を起こしてしまった。 とある休日、鬼畜プレイマニアことゲヴォさんが茅ヶ崎の我が家に遊びにやってきた。夜になり、彼を茅ヶ崎駅に送りつつ夕飯を食べようという話になった。うちから茅ヶ崎駅までは徒歩20分かかり、できれば何かしらの文明に頼りたいところであった。しかし、我が家には自転車は一台しかなかった。 我々は考えた。どうにか楽して茅ヶ崎駅にたどり着く方法はないものか、と。 ふと部屋を見渡してみると、スケボーが目に入った。 これだ!!!わしは閃いた。 ゲヴォに自転車を運転させ、わしはスケボーに乗って駅まで行けば、帰りはわしが自転車に乗りつつスケボーを積んで帰ればよいだけなので、全てのことがうまく運ぶ。完璧なプランであった。 そうしてゲヴォ/自転車、わし/スケボーで駅へと向かった。 最初は2人並走していたのだが、出発して3分すると思いのほかスケボーは疲れることが判明した。わしは考えた。そうだ、わしがスケボーに乗ったまま、ゲヴォの乗る自転車につかまれば全く問題ないではないか。早速トライした。 完璧であった。 動力が勝手に提供されるスケボーに乗ることは、この上なく楽しかった。おいて行かれそうになったら自転車に捕まり、勢いがついたら滑走を楽しみ、また止まりそうになったら自転車につかまる。 楽しすぎた。ただ自転車をこいでいるだけのゲヴォを尻目に1人で楽しんでいると、突然ゲヴォは自転車を止めた。 ゲヴォ「俺にもやらせてくれよ」 別に、交代することに何の抵抗もなかったし、自分がやって何の危険も感じなかったし、何の悪意もなく交代した。 そして、自転車に乗ったわしは、ゆっくりこぎ始めた。ゲヴォは、ゲヴォなりにスケボーに乗っていた。その様を見たとき、確かに「この男こんな低速なのに腰が引けてやがる」とチラッと思った。そう思った瞬間に、やめておけばよかったのだ。まさか、あんなことになるなんて…。 ゲヴォもそろそろスケボーに慣れたであろう頃合いを見計らって、わしは自転車の速度を徐々にあげていった。最初にわしが乗っていた時には到底及ばない速度であるが、ゲヴォが後ろでヒーヒー言っているのが聞こえた。いい加減気を遣うのがめんどくさくなってきたのでわしはそれを聞こえないことにして、そのまま通常の走行速度くらいまで速度をあげた。 するとその時。 ガガガガガガッ!!!という音と共に、自転車の後輪に尋常でないブレーキがかかった。そして、猛スピードでスケボーが自転車を追い抜かして民家の壁に激突した。 わし:「何が起こった!!!!???」 と背後を振り返ってみると、なんとゲヴォがわしの乗ったマウンテンバイクの、よりによってむき出しになった後輪部分に袈裟がけにぶら下がっており、その状態で5mくらい引きずられていた。 なぜ!!? なぜそんな轢かれ方が可能なのだ!!!!??? どう考えてもありえない現象である。自転車とスケボーは並走しており、わしがまっすぐ走っている限りその位置関係がクロスすることはありえない。そして、スケボーが急加速して自転車を抜かしていった状況を考えると、彼は何かの拍子に危険を察知して後ろ向きにスケボーから飛び降りたことが予測される。しかし神が彼に運動神経という要素をほんのわずかも与えなかったおかげで、彼は自転車につかまったままスケボーを蹴り出したのであろう。自転車のサドル部分を片手で掴んだままフライングボディープレスの如く宙をを舞った彼の肉体は、地面に着地することなく、走行するマウンテンバイクのタイヤへ吸い込まれていった。そうやって考え得る最大のダメージを自らの手で自らの肉体に加えたのだ。まさに自殺行為的なダイビングである。 そんな大事故が起きた後なので、さすがのわしもゲヴォを心配し、大丈夫かと声を掛けてあげたら、 ゲヴォ:「大丈夫だよっ◎ふぅ、危なかったねっ◎」 と矢継ぎ早に返事が返ってきたが、その顔面は完全に黄泉の国を見学なさった後の表情をしていらっしゃった。 幸いなことに彼の体は大爆毛に覆われていたため怪我は一切なかったのだが、みなさんもふとしたことから大惨事を招く可能性は十分あるのだということを再度思い出していただきたい。 |
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2010 11,24 18:00 |
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写真アップしました!
左のリンクから見てくださいな。 ・・・楽しかったなぁ、ぐすん (名前間違い結構あるっぽいんですが許してください) |
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2010 10,28 15:54 |
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昔の記憶と当時の音楽がリンクしていて、その音楽をたまたま耳にするとふと昔のことを思い出すという経験はみなさんもよくあるのではないだろうか。 そういう記憶や音楽もいつか忘れてしまいそうなので、思い出せるうちに書き記してみたいと思った。 ■幼稚園時代 「泳げたいやきくん」 紙芝居みたいな絵のたいやきくんには人間の腕が2本生えており、それをぐるぐると回転させて海中を泳いでいる景色が思い出される。 「メトロポリタンミュージアム」 なんだか暗い森みたいな風景が思い出される。「おかあさんといっしょ」という子供番組の中の「みんなのうた」の中で流れていた気がするなぁ。 「パラダイス銀河」 ヒカルゲンジの曲。幼稚園の運動会で、パラバルーンという集団演技をする際に流れていた。今思えば、よくあんな小さい子供たちがまとまって演技していたなぁと感心である。イトウヒデヨ先生という担任の先生が結婚によって幼稚園をやめるときにすごい泣いていたのもよく覚えている。 ■小学校~中学時代 「春よこい」 松任谷由美の朝ドラの主題歌だったかな。すごいがんばってラジオの音源をカセットテープだかMDだかに録音し、ネームシールを貼った後で「春よこい」と油性ペンで最大集中のきれいな字を書こうとしたら、なぜか「春よこと」と書いてしまい、自分の知能の低さにゲンナリした景色がはっきりと浮かぶ。 「春 spring」 ヒステリックブルーの曲。高校受験のための激烈な受験勉強をしている時に、ラジオから流れていた曲。中学生らしい生活の自由を全て奪われていた当時のつらい気持ちが思い出され、今でも聞くと胸が苦しくなる。 ■高校時代 「Rollin’」 Limp Bizkitの曲。WWF(アメリカのプロレス)にはまっていたこともあり、突然の洋楽デビュー。The Undertakerの入場曲。リングサイドまでハーレーで乗り付けるというのは、アメリカらしいスケールのでかさだなぁ。 「My way」 Limp Bizkitの曲。これもWWFで使われていた。とある特番のテーマソング。当時のWWFは最高にアツかった。毎日英語のWWFを見まくってたので、変な英語の知識が身についた。また、字幕もかなり個性的であり、自分の文章のルーツはもしかしたらここにあるのかもしれない。 「My Sacrifice」 Creedの曲。これもWWFの特番のテーマソング。テーマソングに合わせてレスラーの名プレー集が流れるのだが、これがまたかっこよくて食い入るように見ていた。 「天体観測」 バンプの曲。高校3年生、劣悪な成績のため卒業が危うい時、ある先生が「体育祭実行委員やったら成績1コあげてやる」と言ったので、実行委員を引き受けた。その準備室で流れていた曲。高校の会議室を思い出す。 「未来派Lovers」 機動警察パトレイバーというアニメの曲。高校時代、クラスの激ヲタアニメ族の一派に半分足を踏み入れていたときの歌。嫌いなわけではないが、今聞くとなんだか恥ずかしい!!!! ■大学時代 「Minority」 Green dayの曲。大会とかで車を出すと必ず車内でこれがかけられた。宇都宮や富士の町中で車の窓を全開にし、最大ボリュームで爆音を轟かせていた。もちろんそんなどうでもいいことを思いつくのは、そう、どりんぼ。試合後のどりんぼの壮絶な足臭と共に、スピーカーの能力を超えた爆音だったため音が割れまくっていたことが思い出される。 「Boy meets girl」 TRFの曲。学生4年で最後の富士や最後のひたちなかへ向かう際に流れていた。「ハスキーもこれで最後か…」と思いながら聞いていたため、今聞くとちょっぴり寂しい気分になる。学生の夏の終わりを告げる曲。 「青いベンチ」 サスケの曲。湘南台のカラオケに行った時、若かりし竜さんと横やんがこれを歌いながら号泣していた。いやぁ、大学生してたなぁ、という思いで。 「しんごママのオハロック」 香取慎吾の曲。全日のカラオケ付きの宿での飲み会で、とあるチープな男性が全裸でこれを歌っていた。そして曲の途中の「おっはー!」のところで完全に足を開脚するという、安いにも程がある記憶が甦る。その場にはあろうことか数多くのレディースもおりそのほとんどが退席するか目を伏せていたのだが、最前列に陣取っていた闘将中村さんは顔を覆う指の間から完全に暴れん棒を凝視していた。そして後日、「だって見なきゃ損じゃん」と言い放っていた。その発言に途方もなくカッコイイと思ったことを覚えている。 「This love」 Maroon5の曲。辻堂に住んでいた竜さんちでの宅飲みで、酔っぱらって正座して号泣し、記憶を無くした。Redさんという劣悪なウイスキーのコーラ割をしこたま飲まされた。 「桜」 コブクロの桜。卒業のシーズンに流れていた。自由な生活とはこれでホントにお別れなんだという寂しさが思い出される。 ■社会人 「CHE.R.RY 」 Yuiの曲。自分が社会人1年目のときに学生1年生としてハスキーに入ってきた子たちを思い出す。それから4年間、なにかとお世話になった。マッスルパークに行ったり、家で食事会をしたり、わんこそば食べたり、滝行に連れて行ってもらったり、スノボに連れて行ってもらったり…。ホント、訳の分からないリーマンをよくもかまってくれたものだ。大変感謝。な、曲。ちなみに竜さんの着歌だった。 「It’s my life」 ジョビンボの曲。秀一先生の名プレー集に使われていた曲だが、自分の中ではハスキーオープンが最強だった頃のテーマソングになっている。学生で優勝し、全日では並みいる社会人チームを倒し、学生では中京・大体・ハスキーの3強が確立されていた。大体との準決勝で惜しくも敗れた際、大体の連中が涙しているのを見て、ハスキーズの名前はそんなに知れ渡ったのかと驚いたのを思い出す。自分らの頃はホーンズかハスキーズか区別がつかないと言われたこともあったのに…。あっぱれ! 「涙そうそう」 夏川りみの曲。初めての世界大会でオーストラリアに行った時に聞いていた。世界大会に向けたミックスチームが設立されるという噂を聞き、キャプテンのハチさんに直々に志願して(それまでほとんど面識はなかった)チームに入れてもらったが、自分は全くの役立たずであり、菅平ミックスで優勝したときも、実際に世界大会に行っている時も孤独を感じていた。そしてとにかく空腹だった。そんな、ちょっとしょっぱい思い出の曲。 「Waka Waka」 Shakiraの曲。2010年サッカーワールドカップのテーマソングの1つ。ちょうど同時期にチェコで世界大会が行われ、高速を走るレンタカーのラジオでかかっていた。これを聞くとウキウキしてくる。 書き出したら、次々と思い出が甦ってきた。ホントはもっとあるのだろうけど、また思い出した時ということで。 |
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2010 10,13 12:47 |
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2010 10,08 12:50 |
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最近のブログは過去の記憶を引っぱり出してばかりなのでネタに何の新鮮味もないことが悩みなのであるが、また1つ思い出してしまった。 いつかは忘れてしまったが、スキー旅行に行ったときのこと。 せっかくスキー旅行に来ているのだから純粋にスキー・スノボを楽しめばいいものを、途中からそれとは全然関係の無い刺激を求め始める男がいた。 その男は、 そう、
2人で滑走していると、どりんぼの顔面があからさまに悪だくみを考えついたときの安くて邪悪な笑みに包まれているのに気付いたため、仕方なしにその訳をたずねてみた。 どりんぼ「おもしろいこと思いついたからちょっとついてきて」 連れてこられたのはゲレンデのインフォメーションセンター。 どりんぼ「場内放送を使って、ピンクさん(伝説上のハスキーズの選手)の名前で○○を呼び出そうぜ、げへへへ」 わしは同時にいくつかのことが頭を駆け巡った。 1.確かに「湘南よりお越しの○○様、ピンク様がお呼びです」という場内放送が流れたらおもしろそうだが、ピンクさん名義で呼び出してくれる訳がない。 2.面倒くさい。 3.雪山なのに普段と何ら変わらない服装をしているどりんぼの感覚は異常。 とりあえず1.のハードルを越えないことにはこの目的を達成できないため、あきらめてくれることを期待してわしはある提案をした。 わし「じゃあ、どりんぼは英語も喋れることだし(顔面もあっち系だし)、ピンクという名前の外国人になりすませばいいんじゃない?」 よく考えなくても無理がありすぎることは明白な提案であったが、どりんぼからの回答はわしの期待を超越していた。 どりんぼ「お、それいいね。じゃあ俺はアメリカ出身のジョン・ピンク役をやるから、おまえは日本人の付添い役やって。」 は??????という間に、奴はインフォメーションへと向かっていた。 どりんぼ「My name is John Pink. I lost sight of my friends. Please call them.」 インフォメーションのお姉さん「!??(200%の困惑)」 困惑気味のお姉さんは、ジョン・ピンク氏の隣にいたわしに救いの視線を求めてきた。わしは必死に笑いをこらえながら、 わし「この人はピンクさんと言って、アメリカから友達と来ているみたいなんですけど、はぐれてしまったみたいなんですよね~。放送で呼び出したいみたいなんですけど…。」 わざわざ二度手間で後から説明できるのだったら、最初から日本語の話せる付添い(わし)が放送のお願いすべきじゃんという途方もない矛盾がこの時点で生じてしまっているわけだが、もはや乗りかけた船は出発してしまっている。 そして3人でしどろもどろになんやかんやしていると、この後事態は思わぬ方向へ展開していった。 第三者「私、英語話せますけど、どうかしましたか??」 なんと、突然海外留学経験があるという第三者(日本人)がジョン・ピンク氏とインフォメーションのお姉さんの間に割って入り、仲介を申し出たのである。そしてその人の連れもわらわら集まってきてしまい、ジョン・ピンク氏の周りには軽く人だかりができてしまった。 もうこうなってしまってはわしもジョン・ピンク氏も後には引けなくなってしまい、最後までチープで綱渡りな小芝居を続けざるを得なくなってしまった。出発してしまった船はタイタニック号であったことに気付くも後の祭りである。 わしはガイジンの友達をスキー場まで連れてきたのはいいものの、圧倒的な英語力不足によりジョン・ピンク氏とうまくコミュニケーションが図れず、更にジョン・ピンク氏の代わりにインフォメーションに呼び出しの依頼することすらできないというクソ馬鹿役を、 どりんぼはアメリカ生まれテキサス育ちでふらっと日本に遊びにきて、スキーに連れて来られたが友達とはぐれてしまったジョン・ピンク氏役を徹底的に演じ続けた。 どりんぼに至ってはその仲介の人とフランクに生い立ちの話とかまでしていた気がする。 およそ5分に渡る茶番劇の結果、事情を承知した仲介の人が、改めてインフォメーションのお姉さんに事の顛末を伝えてくれた。 場内放送「湘南からお越しの○○様。湘南からお越しの○○様。お連れのジョン・ピンク様がお待ちですので、至急インフォメーションまでお越し下さい。」 いざ放送されて気付いたことがある。 そもそも、ハスキー内でのニックネームは「ピンクさん」なので、即席でつくられた「ジョン・ピンク」と言われても誰のことかわかる人はいない。 当然、インフォメーションには誰も来ない。 また5分くらいその場で待機したもののどうやっても埒があかないため、「うーむ、どうも伝わらなかったみたいなので、もうしばらく自分たちで探してみます」的なカス演技をぶちまけて、ジョン・ピンク氏とわしは逃げるようにしてその場を立ち去ったのであった。雪山なのに、汗だくであった。 インフォメーションのお姉さん、そしてジョン・ピンク氏に救いの手を差し伸べてくれた仏のような心の持ち主の第三者の方、最低の悪ふざけによって貴重な時間を無駄にしてしまったこと、そしてせっかくの善意を踏みにじるような行為をしてしまったこと、この場を借りて深くお詫び申し上げます。 |
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2010 10,04 14:29 |
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先日、双子系アルティメッターでおなじみの双子兄の結婚式に出席してきた。ベジグリフォンズの一員として結婚式~披露宴に参加させていただいたのだが、そこでめでたい場ににあってはならない事件を目撃してしまった。 我々ベジグリフォンズはなぜか「スノボ」というカテゴリーの席にぶち込まれ、一同「??」となっているところに披露宴開始となった。新郎新婦挨拶の後は、それぞれの職場の上司からの挨拶であった。2人の紹介から始まったのになぜか途中で話は会社紹介に移り、結局全体の半分以上の内容は会社関係という一風変わった内容で、実に合計45分に渡る大演説であった。その間酒をおあずけにされているベジグリフォンズの連中は、開始10分ともたずに痺れを切らしていた。中でも、部長による「あいつら課長でしょ?俺、部長。俺の方が偉い」という得意げな発言や、ガボンの傍若無人な睡眠は、見ていていたたまれなかった。 ようやく乾杯が終わり、新婦がお色直しのために退席したため、我々は新郎の双子兄に絡みに高砂席へ向かった。新郎を取り囲んで祝福し、記念撮影という流れになったところで大事件は起きた。 新婦はお色直しのため高砂席にいないはずなのだが、わしの視線の端に、メンバーに祝われる新郎越しに新婦席付近でなにやら蠢く物体を捉えた。新郎を祝いつつ、まぁ会場の係員さんだろうとチラッと新婦席に視線を移すと、そこには新婦席に座りこみ、新婦のために用意された料理を貪り食う狂人がいた。わしはあまりにショッキングな出来事に背筋が凍った。 そんな狂気の沙汰を繰り広げていたのは、 そう、 どりんぼ 日頃ベジグリフォンズで反社会的な行為に免疫ができているはずのメンバーであったが、今回だけは新郎を含め全員が唖然としていた。そして、他の招待者たちは尚更で、まるで犯罪を目撃してしまったような表情でどりんぼの蛮行を凝視していた。高砂席周辺の一同が揃って唖然としている様は、脳裏に焼き付いて忘れられなくなるであろう衝撃的な光景であった。 それから少し間をおいて心に落ち着きを取り戻したところで、「何で新婦の料理を食べたんだい?」と諭すように聞くと、 どりんぼ「料理を残すのがもったいなかったから。」 なんと地球のエコを配慮しての行動だったのだという。常人の感覚を遙かに超えた高い意識の持ちようである。
一歩間違えればポリスへ直行である。 |
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2010 09,24 13:40 |
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普段いけすかないことでおなじみのゲヴォさんであるが、わしの知る限り一度だけ、神様からスポットライトを当てられたとしか言いようがない大活躍をしたことがある。 注)ゲヴォさんの軽い紹介。わしにとって唯一の高校~現在まで続く友人。高校の頃からフィールドホッケーのゴールキーパーを務め、一緒に出場した高校最後の公式戦にて、グラウンドの中で大嘔吐し試合を完全破壊。その事件よりゲヴォさんとかゲボタンクとかゲボッチュウと呼ばれている。 大学4年の冬、卒業前にスキーをしに行った時の話。 本題に入る前に、まずはその際の彼のいでたちが常軌を逸していたことの説明をしなければならない。 彼は親から譲ってもらったと思われるスキーウェアを装着していらっしゃったが、何か違和感を感じた。ジャケットはラベンダー色、ズボンはクリーム色、そしてサイズが不自然に小さくアンダーアーマーみたいになっていた。 …まさか母親の!!!!?? しかし違和感はそれだけに収まらない。帽子をみると、とこかで見たことがあるような形をしている。…原宿の、ラフォーレの隣の交差点に面したお店で見たような…。どっからどうみてもコンド○ムを模した形であった。そんなもの、頭に載せるべきではない。 そんなゲヴォさんは、少年少女が滑っているが如く完全にボーゲンスタイルで「★」みたいな形になってチョロチョロと滑走していた。 そんなこんなで、雪上が苦手そうなゲヴォさんな訳であったが、スキーも一通り終えて宿にあがろうかというところに、宿の前に無料レンタルの「そり」がいくつも置いてあるのを発見したので、そりで遊ぶことにした。 無人のリフトだったのでそりを持ったまま乗ることできたため、かなり高いところから滑り降りることができた。幸いほとんど貸し切り状態だったので、まさに縦横無尽に滑りまくりであった。 すると偶然、ブルドーザーみたいな除雪車が下からやってきて、ゲレンデに我々のためと言わんばかりに、下から上まで一直線に雪を踏み固めていった。ブルドーザーが通った後はまるで、ボブスレーとかリュージュ/スケルトンみたいな一直線でツルツルのコースができあがった。 この幸運を見逃すなとばかりに、何度もそりで滑走を繰り返したのだが、あまりにキレイなコースだったためにスピード感に物足りなさを感じていた。 やはり子供用のプラスチックのそりでは限界があるなぁと飽き始めていた頃、なにやらゲヴォさんがとてつもないものを手にして仁王立ちされていた。 『競技用そり』 それはボディーボードのような形をしており、子供用プラスチックそりと比べあからさまに攻撃的なフォルムをしていらっしゃった。レンタルそり置き場の奥の方に安置されていたのだという。 コースにそりに、完璧なシチュエーションが整ったため、迷わず競技用そりの実力を試してみることにした。 保守的なゲヴォさんを尻目に、まずはわしがトライしてみることにした。 リフト1本分くらい上から滑り降りるので、コースはかなり長い。その中でどれくらいのスピードが出せるものなのか、男気のスケルトン乗りで挑んだ。 大人のそりは、それはそれは暴力的であった。 スキーで直滑降してる時のような「ゴーーーー!!!!」という風を切る音と共に、スピードはぐんぐん上がっていった。コースの中腹くらいまで来たところでもはやどうブレーキをかけても止まれないくらいのスピードになりコントロール不能に陥ってしまったため、わしはコース脇の新雪部分に身を投げ出した。映画で走っている車から飛び降りて地面でゴロゴロしているのとまったく同じ感じで、わしは白煙をあげながら斜面を転げ落ちた。 素晴らしくエキサイティングなスポーツを発見してしまった。 次はゲヴォさんの番である。 コ○ドームを頭にのせたラベンダーのお花ちゃん型の人は、スタートラインにセットし、わしと同じスケルトン乗りで挑んできた。 そしてスタートした。 わし同様、ぐんぐんスピードがあがってゆく。遠くから眺めて「速い!」と感じるくらいだから、よっぽどスピードが出ていたのであろう。そして地面すれすれに顔のある当人の体感スピードは計り知れないものがある。 コースの中腹に差し掛かったところで、やはりわし同様コントロールを失っているようであった。何度か両手を地面にあててブレーキを掛けようとしているようだが、全くスピードは収まらない。それどころかジタバタしているうちにガンガンスピードが上がってゆく。 もう止まるためには身を投げ出すしかないのは明白であった。 が、究極の男・ゲヴォさんはここからが違った。意志薄弱なわしと違いそこで腹を据え、抵抗することなく再度スピードに身を委ねたのだ。 降りしきる雪を切り裂き、神のようなスピードで残りのコースを攻めてきた。彼が近づいてくるにつれ「ゴーー!」という音が大きくなってきた。 「俺の限界をとっくに超えてしまっているおまえのスピードは、もはや誰にも止めることはできない。おまえはなぜ己の命を賭してまでスピードを追い求めるのだ、負けたぜ、このスピード狂め。」 とわしが心の中で敗北を認めたのとほぼ同時に、ゲヴォさんはコースの行き止まりの深い新雪へトップスピードで突っ込んだ。 ボンッ!!!!!! という音と共に、○ンドームをかぶったラベンダーは宙を舞った。わしの目の高さと同じくらいの高度で、ゆうに5mはかっ飛んだ。わしはあれほどキレイに人間の肉体が放物線を描く姿は見たことがない。 そしてアニメのように頭から新雪の山に突き刺さった。着地点の2mくらいとなりには普通に倉庫が建っていたので、ホントに大事故危機一髪であった。 誰もがあまりの大クラッシュに驚きゲヴォさんのもとに駆け寄ると、ゲヴォさんは戦地から帰ってきたヒーローのように雪をかき分け無事に帰還した。 まさかただのスキー旅行でここまでのエクストリームスポーツを目撃することになろうとは夢にも思わなかった。 彼はその日、人生で一番かっこよかったのかもしれない。 その後、最後までブレーキをかけなかった彼の英断の真相をたずねると、こんなコメントが返ってきた。 ゲヴォ:「速すぎてもう自分ではどうすることもできなかったんだよぅ」 |
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2010 09,21 14:13 |
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ある日の練習の帰り道。 わしは荻窪に向かう予定であったので、ついでに自称新宿が最も似合う男どりんぼを家まで送ってあげることにした。 愛車のコペンに足臭魔人どりんぼが乗り込むということで、それを見越して事前に奴の足もとのスペースに香水を2プッシュしていたことは言うまでもない。 新宿付近に近づくと、どりんぼから珍しいことに「うちで夕飯食べていかない?」と夕飯に誘っていただいた。ご結婚されてからの宅飯なので、当然どりんぼが料理するわけではなく、奴のワイフのお料理を食べれるということで非常に魅力的であった。(奴がまだシングルだった頃に手料理をご馳走してもらったことがあったが、まるで石器時代のような調理方法で賞味期限限界の食料の一斉処分をさせられた。http://web.sfc.keio.ac.jp/~rikishi/2005dorinbo_party/2005dorinbo_party.html) そんな魅力的なお誘いがあったものの、その後用事があったためやむなくお断りせざるを得なかった。 そんなこんなでどりんぼ宅に到着すると、少しあがらせていただくことになった。するとマコさん(ワイフ)はとても気にして下さり、少しでもいいからとご飯を用意して下さった。麻婆丼、サラダ、桃であった。最近チープな外食しか食べていないわしにとって久々の手料理であったので、とてもおいしかった。やっぱり手料理はいいなぁと感慨にふけっていた。 わしがしみじみ味わっているのとは対照的に、汗が噴き出るほどの壮絶な勢いで、完全に2人前用意されている麻婆丼とサラダを一心不乱に己の口にぶち込み続けている輩が隣にいた。もちろん、それが誰かは説明不要である。 わしはまさかとは思ったが、どこかに嫌な予感を感じていた。 奴は親の敵のように必死の形相で飯を口にぶち込み続け、もはや口まわりはホワイトクリスマスやらレッドホットクリスマスやらもう訳のわからないぐちゃぐちゃの模様を形成していた。 テーブルの上の料理がほとんど全てなくなったところで、一通り作業を終えたマコさんがやってきて、言った。 マコさん:「あれ、私の分は??」 家にいるのはわし、どりんぼ、マコさんの3人。わしの分以外に2人前用意されているということは、その後それを誰が食べるのかということは幼稚園の年中さんでもわかることである。しかし、その空間にはわからない者が1名いたらしい。 料理つくったのに食べれないなんていう状況は、レストランとか以外ではまず無いが、そんな異次元な状況がその空間には生み出されてしまった。 マコさん:「何で私の分も食べちゃったの?」 どりんぼ:「足りなかったから」 マコさんの分が足りなくなってしまったことにわしも加担してしまったような気がして大変心苦しくて恐縮な気持ちになりながら、またコペンの旅に戻りましたとさ。 |
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2010 09,03 10:58 |
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自分ではあたりまえと思い続けてきたけど、実はハスキーの人やベジの人などにすらほとんど話したことのないことを思い出した。 自分には絶対的なスーパースターがいる。 その名も、「The Rock」。 ????誰それ?、という人がほとんどだと思うのだが、とりあえず上の映像をご覧いただきたい。 なんと美しく、壮大で、ダイナミックで、華々しい技であろうか。あまりの迫力に、もはや神々しさすら感じられる。 わしは、誰が何と言おうとこのロック様の最終奥義「People’s elbow」がこの世で最強最大の技だと確信している。 ドラゴンボールの元気玉の如く、全国民の願いが込められたロック様の肘が邪悪な敵の胸部に突き刺さることによって、何度世界が救われたことであろうか。 紹介が遅れたが、簡単に説明するとロック様とはこんなお方である。 ■WWE(World Wrestling Entertainment)に所属したレスラー。(当時はWWF(World Wrestling Federation)といった) ■そのWWE史上でも伝説的なスーパースター ■圧倒的なマイクパフォーマンス ■必殺技は、スパインバスター、ロックボトム、ピープルズエルボー ロック様が活躍していたのは約10年前の2000年であった。高校生の頃に自宅にケーブルテレビが入り、いつでもスポーツチャンネルが見られるようになった。毎週月曜には「RAW」、火曜には「Smack Down」という2時間番組が放送されており、毎月末にはPPV(Pay per View)といわれる特番が放送されていた。 当時プロレスにはこれっぽっちの興味もなかったわしだが、何の気なしにそれらの番組を見ていたら、いつの間にかWWFの虜になってしまい、毎週欠かさずに見るようにまでなっていた。高校の丸3年間くらいずっと見続けた結果、当時出場していたレスラーたちの顔や名前、各々の必殺技にいたるまで全てを把握できるまでに成長してしまっていた。 その中でも圧倒的な存在感を誇っていたのが、「The Rock」ロック様である。つべこべ口で説明しても彼のカリスマ性やレスラーとは思えない驚異的な演技力を伝えることはできないので、続きは是非YouTubeとかで調べていただきたい。 そんなWWFに最大限のめり込んでいた高校3年の時、WWFの新たな企画番組「Tough Enough」が始まった。どんな内容なのかというと、一般の素人を現役のWWFレスラーがイチから鍛え上げ、最後まで勝ち残った者は最終的にWWFのレスラーの一員になれるというものであった。 わしは迷わず応募した。 書類選考での当然の落選。 それでもWWFレスラーの道をあきらめきれなかったわしは、当時WWFに所属していた日本人「TAKAみちのく」が運営する「みちのく道場」とコンタクトをとったものの、自分の中で徐々にWWF熱が冷めてきたことに気づき実際に道場の門を叩くまでには至らなかったという件もある。 あの時の勢いのままプロレスラーを本気で目指してしまっていたら… そう、ロック様は、ボゥやジップよりも遥か遠く彼方に存在する、わしの中での確固たるスーパースターなのである。 ※現在、ロック様はプロレスラーからハリウッド俳優に転向し、映画俳優として活動している。ロック様の出演する代表作は、「ハムナプトラ2」、「スコーピオンキング」など。 |
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2010 09,02 16:34 |
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最近ニュースでは熱中症で救急搬送が激増、中には死者もでているという報道をよく耳にするが、実は他人事ではない事態に襲われた。 8月の頭。 日曜日の朝起きると、なんだか腹の調子が悪かった。でもそこまで痛くなかったので、一時的なものだろうとタカをくくり、アルティの練習に行く準備をし、いつも通り家を出た。 駅前のそば屋で消化の良さそうなものを選び、普通に朝食として食べた。 が、食べ終わって5分ほどすると、胃が締めつけられるようなかなりの痛みに襲われ、トイレを求め駅の近くのコンビニに駆け込んだ。 飲食したものの大半を放出し、その場で痛みは治まった。 なんだか腹の調子が悪いなぁと思いながらも、そこまで重症とも思わず、そのまま小岩へ練習に向かった。 電車の中で、先ほどのコンビニで買った水を飲むと、やはり5分くらいすると胃が絞られるような痛みに襲われた。かなりの痛みだったが、じっと耐えると1分くらいで治まったので、これまた「腹に入れるものは気をつけなければなぁ」くらいの感覚でいた。 練習場所に着くと、そこは既にかなりの暑さであった。確かその日は日中の気温が35℃くらいいく猛暑日であった。午前の練習は普通に参加していたのだが、どうにも腹の調子がおかしく、汗をかくので水分補給のために飲んだもの全てがやはり放出されてしまう。が、気迫で乗り切れば、このつらさは後日の糧となるだろうと思い練習を続行した。 お昼頃まで練習した頃、異常に腹部が冷えているのと、暑さでなんだか頭がフラフラしてきてしまい、全力で練習に臨めないと思ったので、早退することに決めた。 それからというものは、まさに生きた心地もしない地獄のようなつらさが待っていた。 その時点で既に熱中症にかかっているという自覚があり、完全に体温のコントロール機能を失ってしまっていた。猛暑の中暑いのだか寒いのだかよくわからなくなり、水だろうがアクエリだろうが口に入れたものは猛烈な腹痛と共にすぐに放出されてしまい、脱水症状もプラスされていることは間違いなかった。 ただ「やばい熱中症だ~」という意識と、1人で(荻窪の)家まで帰れるという意志はその時点ではあったので、重症ではないと思っていた。この事態をなんとか自分で対処しようと考え、練習場近くにセブンでゼリーと水を買い、少しでも栄養と水分を摂ろうと努力した。 小岩駅までバスに乗り、そこから総武線に乗り換えた。 電車内で、猛烈な波がやってきた。酒を飲んでもいないのにとてつもない胸やけに襲われ、下手したら次の駅まで我慢できずに吐いてしまうのではないかという症状に襲われた。冷汗は噴出し、目の前がピカピカ光っていた。さっき食べたゼリーに違いない。 最後の気力を振り絞り、水道橋で降り、すぐ目の前のベンチにぐったりと座った。トイレに行く気力もなかった。幸い波は通り過ぎ、猛烈な吐き気は治まったので、また電車に乗り直した。しかし、おかしなことに30分くらい時間が飛んでいた。今考えると、ベンチで意識を失っていたのかもしれない。 その後もう一度吐き気&腹痛に襲われ途中下車をし、なんとか荻窪駅までたどり着いた。必死の形相で家にたどり着き、がんばってシャワーを浴び、倒れるように寝た。 その頃の体調は最悪であった。頭が割れそうなほどの頭痛に、じっとしていられないほどの全身の痛みと悪寒に襲われた。実際には計らなかったが、39℃くらいの高熱が出ているような感覚であった。 夜も寝れないほどひたすらもだえ苦しみ、朝を迎えた。 月曜なので仕事があったのだが、全く行ける体調ではなかったので、お休みする旨の電話を職場に入れた。 まだまだ全然治っておらず、腹痛、頭痛、体の節々が痛いとひどい有様であった。たまたま月曜に仕事の無かったアイコに付き添ってもらい、近所の病院へと行った。その頃には既に平熱に戻っており、診断としては「急性胃腸炎と熱中症でしょう」とのことだった。合わせ技にやられたのだった。 帰りに栄養剤やアクエリなどを薬局で買い、先ほど処方してもらった薬を飲みながら家路へと向かった。 歩き始めて1分くらいしたところで、閑静な荻窪の路上で、わしは何の前触れもなく全力で吐いた。胃から噴射するような猛烈な勢いで吐いた。 その後はひたすら家で休んだ。一日を通して、ゼリーくらいしか食べれなかった。 翌日、火曜日。 ようやく日常生活ができるかなくらいの体調に戻ったが、まだまだ職場に行き仕事ができるような体調ではないと思ったため、再びお休みの連絡を入れた。この夏の自由に取れる夏休みはこの2日間で消えた。 アイコは仕事だったため、ひたすら家で寝ていた。腹の調子も回復してきたみたいで、少しずついろいろなものを食べれるようになっていた。 夜、帰宅したアイコが外出できないわしに気を利かせて料理をつくってくれた。 「豚肉いっぱいの和風パスタ」 2人で400gくらいつくってくれたので、わしは250g強のパスタを完食した。 それから数時間後、わしは理性ではコントロールできないほどの腹痛に卒倒し、救急搬送された。 搬送先の病院で点滴を受けながら、「急性胃腸炎のときに豚肉や油ものは食べてはいけませんね」との解説を受けた。 たかが熱中症とはいえ、ひとごとではないと実感した、地獄の3日間であった。日中外出しなければいけない人や、アルティの練習などある人は、わしのこの教訓を頭に入れ、十分に注意していただきたい。 |
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2010 07,17 15:14 |
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中世ヨーロッパの歴史が色濃く残る街、プラハ。 市内の中心地の方面に少し出れば、緩やかなヴァルダヴァ川(モルダウ川)を中心にどこを見ても荘厳な石造りの建物に囲まれた、まるでタイムスリップしたかのような素敵な景色が目の前を流れてゆく。その一方で観光地から外れ少し郊外の方に出ると、社会主義時代の重苦しい雰囲気のさびれた建物が並んでおり落書きされ放題なまま放置されているという、暗い一面も併せ持った街であった。 そんなプラハの、中心地からちょっと外れた場所に、我々の根城となるパノラマホテルは建っていた。四つ星ホテルらしく、外観も内装もサービスも、どこをとっても日本と比べても何も遜色のない立派なホテルであった。 我々に割り当てられたホテルの部屋は基本的にダブルであった。 そして、わしの世界大会の約1週間の期間生活を共にしたルームメイトは、 どりんぼ あまりにも残酷な部屋割りであった。 約1週間の間、パノラマホテル822号室においてどんな惨状が繰り広げられていたか、この場で告白させていただきたい。 ■無限放屁地獄 プラハ初日。 成田から飛行機で約15時間という長旅を終え、夕飯を済ませて部屋に着いたのは既に夜の12時を回っていた。別の便で先に到着していたどりんぼは既にベッドでおやすみになっていたため、わしも静かにベッドに入り、消灯した。即寝だった。 午前3時頃。隣から「プシューーーーーーーン」という、亀裂の入ったパイプからガスが漏れるような音がしたため飛び起き部屋を歩き回って調べてみたが、それらしい原因となる箇所は見つけられなかった。不気味に思いながらベッドに戻ろうとした時、隣のベッドから「バビ、モリ、ブリッ」っと、どう考えても意図的に残屁をひねり出す努力が感じられるサウンドが確認された。しかし彼はスヤスヤとおやすみになったままであった。 寝っ屁… 翌朝、昨晩の事件について問い詰めたところ全く記憶に無いし、するわけがないと心外顔をされたのは非常に鬱陶しかったが、寝っ屁はその日だけにとどまらなかった。ほぼ毎日午前3時定刻に隣からガス漏れが聞こえる度、わしは律儀にも毎回その音と匂いにより叩き起こされたのであった。 ■洗面所大洪水地獄 プラハの気候は、予想に反して暑かった。朝晩はそれなりに涼しいのだが、昼間は暑さも湿度も日本と変わらないほど蒸し暑かった。そのため一日試合をすると汗だくになるため、ホテルに帰ってまずすることは、食事よりも先にシャワーである。 部屋に戻ってから夕飯へ行くためのホテルロビー集合まで30分くらいあったため、2人で順番にシャワーに入ることにした。 わしはテーピングの処理にてこずっていたため、シャワーを先にどりんぼに譲った。 これは大きな過ちであった。 洗面所のドアが閉まっていたため、外にいる限り普通にシャワーに入っている、かに思えた。しかし奴は期待を裏切らなかった。途中から、「ブシュシュシュシュシュ」「ブシュシュシュシュシュ」「ブシュ!」と、イノシシたちが水遊びするかの如くサウンドが外に漏れ聞こえてきた。まぁ、常識では考えられない事件が洗面所で起きていることは容易に想像がつく。 10分後、バスタオルにくるまれたビショビショのどりんぼが出てきた。さっぱりして気持ちよさそうな顔をしていらっしゃった。 そして、わしの番である。 心して洗面所に入った。 広いユニットバスの、床、天井、鏡、全てがビショビショである。少し水滴が飛んでいる、くらいの騒ぎではない。例えるなら、バスタブでカーテン全開でシャワー全開でシャンプーをぶちまけ、ひとりウォータースライダーごっこを繰り広げたくらいビショビショである。床なぞは稀に見る豪雨により床上浸水した後くらいビショビショのぐちゃぐちゃであった。 浴室でここまで水遊びをしてしまうのは、7歳の少年であれば無邪気で済むが残念ながら彼はアラサーのオヤジであるため、今後のことを考えこの件に関してはその後キビシク指導させていただいた。 すると次回から、多少気遣ってシャワーを浴びる際にはカーテンを閉めるようになったのか、事態に改善の傾向がみられた。「やればできるじゃん」というと、奴は非常に誇らしげな表情をしていた。 しかしながら、チェコでする気疲れじゃねぇ…。 ■これトレードできるかな事件 世界大会には、イベントの1つとして「トレーディング・ナイト」というものが企画されている。これは試合とは全然関係なく、みんなで会場に集い各国のユニを交換しながらコミュニケーションを図る、というものである。 わしは前回の世界大会で経験していたためだいたいレーディングナイトとはどんなものか想像がついていたため、日本にいるときから、「着なくなったユニとか持ってくるといいよ」と教えていた。ただ相手も人間で何でもかんでもトレードしてくれるわけではないから、ある程度の質(チームのロゴみたいのが入っていた方がいい、背番号があった方がいい、など)は必要よ、とも言っていた。 ある日部屋にてカバンの中をあさっていたどりんぼからこんなことを質問された。「これ、トレードできるかな?」 そう言って取り出したものは、 ・両膝が完全に穴のあいた、5年ものの7分丈CWX ・いつかの大会のプレイヤーズキット(ロンT、パーカーなど)×3 ・いつかの久地練で地面に落ちていた、恐らくかつて野球少年が着ていたと思われる長袖インナー(紺・無地) ・両足の指先&カカトに穴があきつくしたアルティソックス ・ユニ数点 最初の6品くらい、絶対いらない!!!!!てかトレードできるわけがない!!!!!と、心の中で痛烈に思っていたものの、わしはそこをぐっとこらえ、「がんばれば、できるんじゃん?」と励ましてあげた。 が、上記の常軌を逸した6点の品の中で、奇跡的にプレイヤーズキットの真っ赤なパーカーだけはトレードに成功した模様である。トレードでもらったものは、奇しくもあげたのとほぼ同じ真っ赤なパーカーであったので、世の中のどこかには同類がいるんだなぁと感心したのであった。 プラハでの事件は多岐に渡るが、今回はこれまで。 |
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2010 06,25 14:46 |
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![]() ベジのユニを限定2枚(上下セット)で販売します。 興味のある方は、6月27日(日)までにコメントにその旨書いてください。 |
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2010 06,24 10:40 |
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6月23日(水)19:00~21:00 最終日。入会して2週間のうち、2日に1回は通っていたので最後となるとさみしいものがある。常連さんとかもだいたいわかってきたところなのになぁ。今日は気合いを入れてフルセット。いつにも増してフォームに気を付けて、一回一回を丁寧にやった。トレーナーさんに世界大会終わってからも是非継続してくださいと言われたけど、どうかなぁ…。また学校のジムでのトレーニングに落ち着く気がしますね。いろいろな想いを噛みしめつつ、ゴールドジム湘南での2週間のプログラムを終えたのであった。 そう、ボウ・キトリッジ(Revolver所属・Colorado Mamabird出身・2009ワールドゲームスアメリカ代表・言わずと知れた我らがボウ・彼が大学1年の時から注目し続け、5年越しくらいでようやく日本でも有名になってきた・実はキャムデン・キトリッジという弟がJohnny Bravoに所属していたが(現在不明)、兄ほどは目立たない模様・ボウはボーフォートが本名であり、Beaufort Seaというアラスカに面した海の名前から名付けられたと思われる・もちろんボウはアラスカ出身・そして弟のキャムデンもアラスカの地形の名称らしく、彼の家系は自然の名前を付ける慣習があるらしい・2008年北京オリンピックの陸上200m、400mのアメリカ代表の選考を受けており、特に200mは21秒代らしい・190cmくらいの長身であり足も限界に早い上に、高校の頃バスケ部だったためか驚異的な跳躍力も持ち合わせており過去に上競りで175cmくらいの男を飛び越してキャッチしたことがある究極の暴力・スローはうまくないのがご愛敬)と戦える男になることを目指して…
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2010 06,24 10:17 |
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6月22日(火)20:00~21:30 少し体が疲れている感じがしたので軽めで。我流ではなくトレーナーに組んでもらったプログラムで、しっかりフォームとか見ながらやってもらっているためか、怪我はしなさそう。そして、肉離れとかしてしまう前兆である、”妙にパフォーマンスが高すぎる”という状態もないので、トレーニングは順調に進んでいるのかなと思われる。トライアル期間は今日を含めてあと2回、がんばるのみ。 そう、ディラン・タネル(Chain Lightning所属・Geogea大学出身・2009ワールドゲームスアメリカ代表・アメフトばりのがっちりした肉体を武器に奥にも前にも上にも暴力的なキャッチをみせつつ、奴の右手からサイドロングが発射された瞬間、全てがジエンドなほど凶悪な精度&飛距離を誇る、万能過ぎる選手)と戦える男になることを目指して… |
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2010 06,22 10:39 |
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6月21日(月)21:00~23:00 6月9日からの2週間トライアルで入会してから、はや12日。業務後極力来るようにしているがこれまで5回しか来れなかった。意外と来れないものだなぁ。が、その5回でも全てのメニューで1.5倍くらいの重量をこなせるようになった。その動きに慣れてきたのか?はたまたフォームが崩れて妥協したフォームになっているのかな?体のどこの筋肉を使っているのかろいろ考えながらトレーニングすると、2時間もあっという間である。最近だいたいこの時間はワールドカップの試合が中継されているので、最も苦痛であるバイクによるアップも苦にならないのがうれしい。トライアル期間は23日まで。MAXであと2回、やるぞ~。 そう、ジェイソン・シンプソン(Chain Lightningの初期メンバー・名物の黒人選手・まるでダンスのステップを踏んでいるかのような独特なリズムでプレーしている・左利き・サイドは苦手、ぶんまわし系のバックロングをよく打つ)と戦える男になることを目指して… |
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2010 06,18 16:23 |
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ハスキー総会・昼の部の写真をアップしました~。
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2010 06,18 16:17 |
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6月17日(木)21:30~23:00 行ける時間が遅かったので夕飯を食べる前にジムに行ったのだが、やはり空腹だとパワーが出ないらしく、火曜日に普通にこなせていたメニューがすごくつらかった。栄養補給の大切さを改めて実感。次からはしっかりと食べてからトレーニングに練習に臨みたいと思う。 そう、バート・ワトソン(スタンフォード大出身、2010年移籍市場の最大の目玉であることは間違いない!JamからRevolverのキャプテンに移籍、2010年からRevolver所属、2005,2009年ワールドゲームスアメリカ代表、2008UPA優勝、もじゃヒゲに極めてカジュアルにユニを着こなすのがトレードマーク、走って取って投げれるという全ての要素で高い水準をもつ万能選手)と戦える男になることを目指して… |
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2010 06,16 08:44 |
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6月15日(火)20:00~22:00 そう、フォーチュナット・ミューラー(スタンフォード大出身?・マンツーDでカットするときはほとんどキャッチしてしまうキャッチ力・2008UPA決勝で決めまくった驚異的なバックロング・2000年代初めの方でUPA Collage Callahan Award受賞・現在Ironside所属)と戦える男になることを目指して… |
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2010 06,11 09:34 |
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6月10日(木)20:30~22:00 ううむ、まだ2度目だけど、このトレーニングメニューって、実に一般的な気が…。全身をまんべんなくトレーニングしてるだけな気がする…。 が、そもそもの基礎力が足りないとうことなのであろう!まだ始めたばっかりだし、組まれたメニューをきっちりとこなそう。 そう、カート・ギブソン(フロリダ大出身・4年次にUPA Collage優勝、同じくフロリダ大出身で現Sockeyeのティモシー・ギャーレットとは同期であり、ティムのシュートのターゲットとして恐ろしいラインを形成していた、現在DoubleWide所属、トレードマークはアメリカ人には珍しい両手グローブ&7分丈スパッツ)と戦える男になることを目指して… |
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2010 06,10 09:31 |
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それは、アルティをしている者なら必ず夢見ること。
そう、アメリカは「UltiVillage」の制作するDVDのハイライトリールに映ること!!!
UltiVillageと出会ってから8年、自分はすごいプレーを家で見る側の人間で、ここに自分が映るかもしれないなんて思ったこともなかった。 しかし、意外な形でチャンスが巡ってきた!!!! 数少ないチャンスをモノにするには、なるべく多く試合に出て、カメラが向いている時に150%の力を出すしかない!! そのためには、40分ハーフ×2の試合が1週間続くという、長丁場に耐えられる体を準備してゆくことは必要不可欠!!! わしは決意した。
今まで大会前にトレーニングしすぎて直前に怪我するというパターンが続いているので、今回はその辺も注意しながらやっていきたいと思う。 お金を払って、更にブログで宣言してしまったからには、やるしかない! 自分のための復習の意味も込めて、これから7月までのトレーニングを記してゆきたい。 --
今まで我流でやってたトレーニングはなんだったんだという感じだが、今はトレーナー(別に専属ではないが)さんを信じるのみ! 2週間後には、ジョシュ・ジッパーステイン(ブラウン大学出身・4年次にUPA Collage優勝、現在Chain Lightning所属・2009UPA優勝、2005ワールドゲームスアメリカ代表、サッカーから転向、俊足、トレードマークは両腕につけた赤いリストバンド、ニックネーム「ジップ」)と戦える男になることを目指して… |
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2010 05,10 22:04 |
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ビーチの写真、がんばってアップしました!!眠い・・・
左のリンクの一番下にありますよ! ※一部名前の間違いがありました!尾崎さんと本物の人、すいません!! |
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