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2011 11,14 18:11 |
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高校2年生の終わりから、わしはホッケー部の主将となった。1年生も8人くらい入り、晴れて大会に参加できる資格を得た。
そして高校3年生の6月、最後のインターハイ・県予選を迎えた。わしはわしなりに主将としてチームの運営を改善した。同系列の付属校のチームと合同練習を行ってもらったり、これまで1度もなかった他校と練習試合を組んだりと、いろいろなことを始めた。定期的に他校と練習や試合をすることで、自分たちの実力を見直すことができたり、それによってどんなところを強化したらいいのかと考えられるようになった。普通の部活では当たり前のことだと思うが、それが当たり前でないほど頽廃していたS高ホッケー部にとっては全てが改革でありチャレンジであった。しかしその一方でチームとしてがんばる方向に部員を引っ張ることは大変なことであった。 そうやって半年弱という短い期間であるが、チーム改革を行った我々は2年ぶりの公式戦に出場した。 対皆野高校 0-13 対飯能高校 0-6 2年前に戦ったより点差は縮まったものの、やはりまだまだその差は大きかった。残された公式戦は飯能南高校だけとなった。 飯南はこれまで部員数が少なくて活動ができていなかったというチームである。逆に我々が活動できなかった去年から復活していたようで、そういう意味ではチーム環境は似たものがあったかもしれない。ここ1年の活動の差で勝敗が決まるといっても過言ではないので、我々は、我々なりに、気合を入れて試合に臨んだ。 初めて、対外試合で手応えがあった。チームとして別格の完成度を誇る先の2校と違い、飯南とは互角に戦うことができた。もちろん圧倒することはできないまでも、我々のホッケーでも通じるところは通じた。70分全力で戦った。 対飯能南 1-0 最後の公式戦で勝利した。わしからのラストパスを後輩のフジタがゴールにねじ込んだ。3年間で最初で最後のS高のゴールシーンは、意外とあっさりとしたものであった。それにしても3年越しの1点は遠かった。そして、S高校の公式戦勝利は5年ぶりくらいとのことであった。 県予選敗退は変わらないのだが、弱小S高ホッケー部でも努力すれば変わることができると希望を持つことができる敗退であった。 それから3ヶ月経った9月、監督から吉報が伝えられた。皆野高校の監督に先般の公式戦での戦いぶりが認められ、S高の3年生であったわしとゲヴォさんが、国体に向けて埼玉県代表チームを結成するための県代表セレクション試合に招待されたのだった。 県代表・・・。夢にまでみた皆野高校や飯能高校の選手たちと一緒にプレーできるかもしれないということで、わしの気持ちはそれはそれは高ぶった。日頃の練習により一層の熱を入れたことはもちろん、自主的にランニングをしたりして、セレクション試合に向けてコンディションを高めた。 そのセレクション試合にて、ゲヴォさんがその名の由来ともなる史上空前の破壊活動を炸裂させたことにより、わしの夢と希望は戦わずして、水の泡と消えた。 セレクション試合は開始からたった5分、グラウンドの周囲で我々の雄姿を観戦していた女子高生たちから叫び声があがった。わしは、県代表レベルになるとこうもファンができて黄色い声援が届くようになるのかと気分が高揚してますますやる気がみなぎってきた。しかし、その叫び声、もとい悲鳴はプレーとは全く関係ない場面なのにしばらく続いており、わしは一抹の不安を覚えた。すると突然、ピピーーと審判が鋭い笛の音を鳴らした。 審判:「試合を中断します!!」 !!!?????? えっ??こんな晴天なのに雷でも落ちたのか!?????? 訳のわからぬ状況の中キョロキョロあたりを見回してみると、どこから現れたのか、自陣ゴール前には10人前はあるもんじゃが広がっていた。信じられないことに、セレクション試合というプレッシャーに耐え切れなくなったゲヴォさんが、ゴールキーパーの防具を装着しゴール真正面に鎮座したまま、ヘルメットの中から大嘔吐なされたのであった。5歩くらい移動して、せめてゴールの裏で吐けばまだ試合自体は続行できただろうものを、彼は自らが没するまでゴールを守り続けた。彼がいなくなっても広大な毒池が広がっているため、誰もゴールを割ることもできないし、割ろうとも思わない。真の守護神とはこういうものなのか。 没収試合になった後にコート裏でなぜかわしが皆野・飯能の選手に囲まれて大変な目にあったことは忘れられない思い出である。わしが大変な目に遭っている間、ゲヴォさんは涼しげな日陰でドヤ顔のまま安静に横になっていた。壮大に広がるゲロの池を、せっせと後処理するトドコーチの背中は、とても小さくて、悲壮感が漂っていた。。。 せっかく訪れたチャンスをまさかのチームメイトにより打ち砕かれるという悲運も、まだ神様は我々を見捨てていなかった。毎年11月頃に行われるホッケーの早慶戦の高校生の部に、「オール慶應」のメンバーとして招集されたのである。なぜか召集メンバーにゲヴォさんも含まれており、その件に関しては甚だ疑問ではあったのだが、「ゲロを吐きたくなったらせめてコート外で吐きやがれ」とアドバイスしておいたので、今回ばかりは晴れ舞台を完全破壊してくれることもないだろう。 そしてわしは両親を試合会場に招き(高校3年間で初)、J高のメンバーに混ざって慶應代表として早慶戦に臨んだ。 ALL慶應 8 – 0 早稲田 完勝であった。周りのメンバーが頼もしく、わしも2得点を挙げることができた。ゲヴォさんもこの試合では粗相がなかった点では成長がみられた。 その試合をもって我々3年生はホッケー部を引退となった。最後の最後に活躍をみせた我々は、S高ホッケー部の監督から熱心に大学の体育会への入部を勧められ、大学の監督からも事あるごとに勧誘された。 ホッケー一筋で高校3年間を過ごしたわしは当然体育会への入部を決意し、青春時代の夢を共に追いかけた同志ゲヴォさんはラーメン研究会と天文観測同好会への兼部を決意した。 しかしながら、華々しい大学ホッケー生活が待っているかと思いきや、人間関係のいざこざにより半年で退部を決意。 大学生活での目標を失ってから2ヶ月経った大学1年生の11月、わしは家の机の上にふとハスキーズのパンフレットが置いてあるのを見つけたのであった。 PR |
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2011 11,11 13:19 |
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我らがS高校にもいわゆる文化祭というものがあり、当初農業学校であったことから「収穫祭」と呼ばれていた。
我々ホッケー部も美術室を1部屋おさえることができ、さてどんな出し物をしようかといろいろ案を練った。ホッケーストラックアウトとか、ホッケーボーリングとか、実際にゴールを持ってきて来場者にゴールキーパーとのとのPS(ホッケーではいわゆるPKのことを、PS、ペナルティーストロークと呼ぶ)をやらせるのも面白そうだなと、いろいろアイデアが湧いてきた。なかなか議論に決着がつかなかったので、その時マネージャー兼ゴールキーパーの座に成り上がっていたゲヴォさんに我々の出し物のネタを実行委員会に提出してきてもらうことにした。マネージャーの立場として彼の考える一番まともな案を提出してきてくれるだろう。わしはそう期待していた。 後日、各団体の出し物が発表された。 ホッケー部【合成写真館】 !!???????????? 我々は来場者を写真撮影したデータを、いくつか用意した背景パターンに合成し、プリントアウトしたものを額に入れて来場者にプレゼントするというわけのわからない企画をやることになっていた。 準備日、わしは恐る恐る美術室を覗いてみると、そこにはホッケー部員の姿はなく、ゲヴォさん率いるどこから湧いて出てきたのかわからない変態ギャルゲーマニア集団によって占拠されていた。既にそこでは壮大なゲーム大会が開かれており、ストリートファイターみたいだけれども、格闘家の代わりにアニメギャルが闘うみたいなわけのわからないゲームでクサイ男たちが大いに盛り上がっていた。わしは死にたかった。 収穫祭当日、わしはひたすらにPCと向き合い画像の合成作業に取り組んだ。来る客は、地元のおばちゃんが9割8分である(子どもが1人いた)。知らないおばちゃんがポプラ並木に立っている画像とかをひたすら合成しているうちに、わしは実はもう死んでいるのではないかと錯覚したほどである。わしの推測では、合成写真館を開けば公然とデジタルデータとして女子高生の画像を自分のメモリーカードに残すことができるという極めて邪悪な妄想によりこの企画が発案されたと睨んでいるのだが、残念ながら女子高生なんぞ一人も来ない。そこはゲヴォさんの想定を完全に外れていた。 なぜこんなことが起きたのかというと、その年、同系列の付属校であるJ高が鬼畜なことに彼らの文化祭である「日吉祭」と収穫祭の日程をぶちあててきたことにより、世の女子高生は全員日吉祭に吸収されてしまったのである。そのため収穫祭の来場者は、受験生か近所のおばちゃんかしかいないという恐ろしい事態が発生したのである。 驚異的にいけてない高校3年生の文化祭であった。 |
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2011 11,10 09:54 |
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我々が2年生になった。新学期、ホッケー部の部員は2年生と3年生あわせて4人しかいなかったので、是が非でも新勧を成功させなければいけない訳なのだが、正直1年生だけで7人集めるのは難しい。ゲヴォさんはここぞとばかりにいいところを見せつけようとGKの防具に身を包んで校内を練り歩いていたが、防具を装着していることが災いして会う人会う人みんなにボコボコにされるだけで全く勧誘活動としては芳しいものではなかった。
結局新入部員は5人であり、計9名のS高ホッケー部は、スキー部のドベさんを呼んだとしても大会に参加できない状況に陥ってしまった。非常に不毛な1年であり、そしてイケてない高校生活に拍車がかかることにゲンナリであった。 しかしそんなある時、顧問からこんな話が出た。 顧問:「今年から7人制ホッケーの大会というものが開催されるみたいだよ。」 なんたる幸運。これにより部の活動意義がなんとか保たれることとなった。 夏、我々は7人制ホッケーの大会会場である、飯能市の阿須運動公園へと向かった。当時は当然車移動なんてなかったため、全員西武池袋線元加治駅に集合し、そこから30分くらい徒歩での移動である。元加治駅に到着すると、思わぬ歓迎が待っていた。 ボロいスクーターに、ノーヘル、ド金髪、2ケツという、どこからどうみても「ザ・ヤンキー」のお方たちが、完全に我々をロックオンしている様子であった。寂れた駅前の通りを、我々の集合ポイントを中心に行ったり来たり、ブンブンとアクセルを吹かしながら往復しておられた。 彼らの恨みを買うようなことは一切行っていない我々であったが、一同暴力がキライであったため、イワシの大群のように小さくまとまって阿須運動公園の方に歩いていった。 後ろのほうでブンブンいっているが、どれだけ歩いても音が遠くならない。嫌な予感がしてしょうがないのでチラッと後ろを振り返ってみると、先ほどのバイクが我々と10mくらい距離をあけて、我々が歩く速度と同じ速度でついてこられていた。熊と遭遇したときと同じくあまり刺激してはならないと察したため、皆何事もないかのように粛々と開会会場へと歩を進めた。 駅から歩き始めて約30分、我々はヤンキーを引き連れてようやく大会会場へと到着した。会場の駐車場を通り抜けようとすると、駐車場の端にある仮設トイレの脇にバキュームカーが停まっており、そこから何かまるで噴水のように噴出しているのが見えた。 ・・・それは、汚水の噴水であった。ギャグマンガでしか見ることのできないバキュームカーの逆噴射が、目の前で繰り広げられていた。文明のある程度発達した国ではまずみることができない、地上をウ○コが流れるという終わっている状況を尻目に、我々はロッカールームへと邁進した。 道にはウ○コ、後ろにはヤンキー。試合前の心理状態として最低であることに間違いない。 我々にターゲットを絞ったヤンキーは、それはそれは律儀であった。我々がグラウンドで試合している最中も、延々とグラウンドの金網の外をブンブン走り回っていらっしゃった。もしかしたら、彼らなりの応援だったのかもしれない。 動揺を隠し切れない我々は、そこそこの点差をつけられて敗戦した。しかし試合終了の頃には、私設応援団の方々も撤退なさっていたので、我々は悔しいというよりもホッとした気持ちで帰路についたのであった。 |
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2011 11,09 10:39 |
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我々へなちょこホッケー部であるが、実は登録メンバーはたくさんいた。1年生は4人(先日の試合で1人消えた)、3年生は2人なのに対し、2年生が15人くらいいた。中には幽霊部員もいたが、大会とかには十分参加できる人数が揃っていた。
6月に皆野高校で悪夢のような体験をした1ヵ月後、学校は夏休みに入った。我々はへなちょこだがれっきとした体育会のチームであったので、一応夏合宿を行う風習があった。3泊4日くらいで、場所は校内の合宿所で行われていた。2日目の夜、何の前触れも無しにかの猟奇的なモリタ君が「俺、帰るわ」と発言し、合宿所から脱走した。1年生は3人となった。 合宿3日目の練習にはコーチがやってきた。コーチは社会人(当時30台前半くらいだったのかな)であり、バナナマン日村と伊集院光を足して2で割ったような方であった。しっかりとメガネも装着しており、どう見ても運動神経はよさそうではなかったが、トラディショナルなスティックさばきは見事なものであった。見事というよりむしろ変態的でもあった。そんなコーチは部員からは専らトドコーチと呼ばれていた。 その日は普段あまり練習に来ない2年生も多く参加しており(合宿なのに日帰り)、和気藹々としたムードで練習が行われていた。しかしある時、ただならぬ顔でトドコーチが集合をかけた。 トドコーチ:「おまえらたるんだ空気で練習しているが、不真面目なヤツはこのチームにはいらない。この先本気でホッケーができないやつは、この場で立ち去ってもらいたい。」 スポ根ものによくある、いわゆるはっぱをかけるというやつである。だいたいこの後みんなコンチクショウと思って練習に励み、チームが一体となってゆくというのが王道である。 しかし誇り高き戦闘民族を自負する我々はスポ根マンガとは違った。 2年生15人のうち13人が部を去った。 これにより、1年生2人、2年生2人、3年生2人で計6人のチームとなり、11人で行うホッケーの大会に出ることができなくなった。トドコーチのゲキは、ただの取り返しのつかない粛清という形で終了した。 |
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2011 11,08 10:43 |
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ゲヴォさん宙吊り事件から1ヶ月。我らがホッケー部同期は今のところ1人も辞めずになんとかホッケー部を続けていた。猟奇的なモリタ君もすぐにやめるかと思ったら、案外練習に顔を出していた。中でもソヤマは上流階級の家庭出身であるので地味でイケてないホッケー部なんぞすぐに辞めてクラブ通いに染まってしまうかと懸念されていたのだが、みんなで引き留めていた甲斐もあってなんだかんだで続けていた。
ある日の放課後練習のため鳥カゴ(当時のホッケー部は権力が皆無であったためグラウンドを使うことを自主的に控えており、周囲の網が風雨による劣化でとっくに朽ち果てたハンドボールコートの中で練習していた。そのハンドボールコートが通称鳥カゴであった。)に向かっていたら、珍しくわしより早く練習している人がいた。よく見るとソヤマであった。彼はトリカゴの中心付近で少しおかしな格好で静止しており、パッと見では何の練習をしているかわからなかった。わしはすぐに練習の準備をして彼の隣に行ったが、それでも彼が何をしているのかはわからなかった。彼はホッケーのスティックの柄の部分をズボンの上からケツに挿入しており、「これ、気持ちいい」と言っていた。 わしは言葉を失った。 そんなこんなで6月の半ば、いきなり顧問より対外試合があると伝えられた。なんとそれは練習試合ではなく、いきなりのインターハイの県予選であった。わしは初の対外試合ということで武者震いした。 それからすぐの週末、我々は埼玉県でもかなり北部に位置する、県立皆野高校へと向かった。皆野高校は埼玉北部の山地の中腹にあり、最寄り駅から歩いて30分くらいかけて学校まで行くのが非常にしんどかった。最寄り駅は西武秩父線「親鼻駅」というところで、よく修学旅行とかで行く長瀞のすぐ近くであった。我々のS高校からでも片道2時間以上かかる、とにかく遠い場所であった。 いよいよ皆野高校の控え室に入ったところで、おかしなことに気がついた。ホッケーは11人でやるスポーツなのに、知っている顔は10人しかいない。後1人、知らない人がついてきていた。 監督よりスタメンが発表された。 FW アサクラ(2年)、わし(1年)、ドベ(2年/スキー部) MF ゼンポー(3年)、シコピュン(2年)、サワダ(1年) DF ソヤマ(1年)、コヤノ(2年)、ゲヴォさん(1年) SW ハタノ(3年) GK キムラ(2年) FWに、なぜか初対面のスキー部の人が入っていた。欠席者もいたため全体的に人数が少なく、我々1年生もかなりメンバーに入っていた。 初戦の相手は、今大会のホスト校でもある皆野高校。埼玉県には4校しかないのに、前年のインターハイでベスト4に入るという全国的にも強豪校である。 そして、試合が始まった。いや、それはもはやスポーツの試合ではなく、ただのジェノサイドであった。全国レベルの強豪を相手に、チームメイトに宙吊りにされガンジー状態の男や、選手の命であるスティックをケツに挿入している男などの集まりでしかない我がチームは、常にコートの6分の1で試合をしていた。もちろんその6分の1とは、自陣ゴール前である。彼らは練習のようにパスを回し、集団リンチのように強烈なシュートを放ってきた。ほとんどのシュートは1発でゴールに入ってしまうのだが、GK・キムラが奇跡のファインセーブをしても、なんと彼はゴールキーパーの防具を装着した状態では1人で立ち上がれないというとてつもないオプション能力を備えていたため、チームメイトがディフェンスを放棄してキムラを起こしている間に次なる無慈悲なシュートを叩き込まれたことは言わずもがなである。そうして試合開始から地獄のような時間が過ぎていった。 そして試合も後半に入ったところで、事件は起きた。試合中にも関わらず、グラウンドの中央でソヤマは靴紐を結ぶのにえらく手間取っていた。あまりに手間取りすぎてスティックを地面に置き片膝を付いた状態で紐を結んでいると、皆野高校の選手によるシュート性の鋭いパスが、狙ったか狙ってないのか不明だが、一心不乱に靴紐を結ぶソヤマに直撃。ほどなく彼はインジャーリーで退場した。 ただでさえキビシイ状況の中、人数が11対10になるハンデを背負うという鬼畜のような追い討ちもあり、結局試合は28-0で終了。試合は35分ハーフなので2,3分に1点のペースである。失点してからセンターラインまで戻って試合再開するまでの移動時間も考えたらもっとハイペースかもしれない。ボールポゼッションは97:3といったところであろう。しかもその3%のほとんどの時間は、スキー部のドベさんによるドリブルの個人技によって稼いだ時間であった点というのには驚きである。 28-0という記録は、埼玉県のホッケー史上の最多得点とのことで、歴史が塗り替えられた瞬間でもあった。その場に居合わせることができたことはとても光栄である。ちなみに普通のホッケーの試合の点差はサッカーとさほど変わらず、3点もとれば大量得点である。 そして、その試合を最後に、ソヤマはホッケー部から去った。 |
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2011 11,07 16:05 |
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わしは大学に入るまで人生が楽しくなかったので脳が勝手に高校までの記憶を消去しようとしているが、高校卒業から約10年経った今から当時を振り返ってみると、今となってみればそこそこおもしろいネタがあることに気づき始めた。備忘録的な意味も含めて振り返ってみようと思う。
埼玉県にあるS高校に入学したわしはホッケー部に入部した。数ある運動部の中でなぜホッケー部(しかもアイスホッケーではなく、グラウンドホッケー)なのかというと、ホッケー部は新歓で『埼玉県ベスト3保証』と謳っており、新たにスポーツを始めるならそこそこ強い部がいいなと思ったからである。そしていざ入部して県予選に出場すると、埼玉県内にホッケー部はS高を含め4校しかなく、更にそのうちの1チームは人数が足りず廃部寸前だという背景を知らされたときには時既に遅しであった。 ホッケー部の同期は当初5人いた(卒業時には2人になっていた)。スウェーデン帰りのアニメヲタ・サワダ、素行がうさんくさいソヤマ、猟奇的なモリタ、そしてゲロっ吐きのゲヴォさんである。ひたむきにスポーツに打ち込むような性格の男は1人もいなかったことは疑いようもない。 入部してから1ヶ月くらいたったころ、放課後に練習のため部室に向かうと、普段特に仲がよいわけではないモリタ君とゲヴォさんが、不自然なほど近い距離で向かい合って立っている。歩いて近づいてゆくと、どうやら様子がおかしい。普通に向かい合ったら身長はモリタ君の方が高いはずなのに、そのときはなぜかゲヴォさんの方が30cmくらい高い位置からモリタを見下ろすような格好になっていた。 ん??? もう少し近づいたところでわしは事情を理解した。猟奇的なモリタ君は右手一本でゲヴォさんの胸ぐらを掴み上げており、地面に足のつかないゲヴォさんはその名の通り宙吊り状態であった。 紅い夕陽の差し込む部室前で、学ラン姿のゲヴォさんがまるでガンジーの如く無抵抗に吊るし上げられている。ちょうど光の具合でゲヴォさんに後光が差しているように見えたその様は、印象派の画家が描いた鮮明な絵画の如く、今でもわしの脳に深く刻まれている。 と、このままだとゲヴォさんは間違いなくサンドバックになるので、別にゲヴォさんはどうなってもいいのだがわしはこの事件によって関係者として先生に怒られるのが嫌だったので、やんわりとモリタ君を制止してみることにした。 わし:「モリタくん何してるんだい?」 モリタ君:「こいつムカつくからぶん殴ってやりてえ」 わし:「はは!どこがムカつくんだい?」 モリタ君:「こいつの目つきが気にくわねえ」 わし:「ははは、確かに!けどまぁ今回のところは勘弁してあげてよ」 モリタ君:「わかったよ、でも次は許さねえ」 あからさまに猟奇的なモリタ君は意外と従順にゲヴォさんを解放し、当然その後の練習に参加することもなく帰っていった。 晴れて地上に降り立ったゲヴォさんは、パンパンと学ランの掴まれていたあたりを手で払いながら言った。 ゲヴォさん:「ふぅ、僕は暴力がキライなんだよ」 その顔面の完成度たるや、例えるならQBのポニョが自陣エンド内からの一投目でキャラハンを喰らった後に見せたドヤ顔をはるかに凌ぐクオリティーといっても過言ではなかった。 モリタ君の言っていた「目つきが気にくわねえ」というのはこのことだったのかと、嚇怒の余韻はわしにも伝わってきた。しかしわしはモリタ君と違って事なかれ主義のため、別に彼を宙吊りにしてみようとは思わなかった。 そんな、高校1年生の5月のある普通の日の放課後。 |
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2011 10,24 17:52 |
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同期ネタが続いているので、キャプテンとして我らが12代・負の遺産を率いた男についてもおさらいしておきたい。彼の名前は何だったかなぁと思い返すと、なんと本名が思い出せない。かれこれ10年来の付き合いだというのに・・・。現在の名前から過去に遡って本名を突き止めようとがんばってみた。
(高校時代)パイちゃん
結局本名は思い出せず、謎は深まるばかり・・・。 |
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2011 10,20 12:48 |
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再三紹介しているが、我らハスキーズ12代は負の遺産としてハスキーズのみならず社会一般的に鬱陶しがられているわけだが、そんな我々の中で確固たるヒーローの座を譲らない男がいる。
それは、チープエンペラー・D-ROADでもなく、顔面迫力部長・ONAKASENAKA部長でもなく、もちろん自己満むっつり野郎・わしでもない。 並みいる曲者を押しのけてのヒーロー気質の男とは、 そう、天パーダイビング野郎・タンク。 彼のヒロイックは誰もが認め、節々のシーンで圧倒的な伝説を残してきている。 2011年3月吉日、モッコリペロ紅パイ太郎氏の結婚パーティーが催された際、タンクさん(つんくさんと同じイントネーション)はまたひとつ伝説を残した(過去にも「レッドカーペット汚物噴射事件」、「健康診断の尿検査で誤ったサンプルを入れた疑惑事件」、「パトカー5台でリアル連行事件」など過激な伝説が語り継がれている)。それは、パーティー序盤の新郎新婦の入場シーンでのことである。「新郎新婦入場」というくらいだから世間的には間違いなく主役は新郎新婦なのだが、彼は違った。彼は会場の全ての視線を独占していた。 そのパーティーでもよりによって負の遺産たちは幹事を任されており、新郎新婦入場の部分でも会場を盛り上げようと映像を用意していた。映像はモッコリペロ紅パイ太郎夫妻が仲良く遊んでいる様子を50TAの「Perfect Love」にのせてお届けするというものであった。ただ、映像をつくったわしは、何かが足りないと悩んでいた。がんばって会場の皆さんの心が暖まるハートフルな作品をつくったつもりであったが、何か機械的で、冷たい感じが拭いきれない・・・。 何が足りないのだろう・・・。 そうだ、血の通った人間による生歌だ!!!!! わしは100人以上入っている会場全体に向かって生歌を披露するという無理難題を、パーティー3日前にある男に依頼した。普通ならこんなドギツイ依頼は嫌だ嫌だとたらい回しにされるのが常であるが、彼は男の中の男だった。二つ返事でOKをいただけた。 その男こそ、 タンク。 パーティー当日、彼は余裕があるのかないのかよくわからない表情で会場に現れた。準備は大丈夫?と心配すると、「練習したから大丈夫」とのこと。しっかり自作のカンペも仕込んでおり、彼なりに努力が感じられ目頭が熱くなった。 そして本番がやってきた。会場の250インチはあろうかという巨大な天つりスクリーンの前に、ゆうに2メートルはあろうかというこれまた巨大な三脚を設置し、勇ましい足取りで頂点まで登ってゆくタンクさん。次第に小さくなってゆくタンクさんの背中を見上げながら、どれだけの頼もしさを感じたことであろうか。 巨大三脚の頂点に到達したタンクさんは、高高度で必殺ラルクアンシエル座りを繰り出し、準備万端である。 そして映像が始まった。 歌の出だし。 初っ端から噛みまくっている!!? タンクさんの身に何が起きたのかはわからなかったのだが、か細い声で歌うタンクさんは、カンペを見ているにも関わらず見事に歌を間違えまくっていた。それにしてもギャグなのかと疑うほどことごとく間違えていた!歌詞もタイミングも、全てタンクさんがクリエイトしていたといっても過言ではない!!!! わしはONAKASENAKA部長と、事故現場と離れた場所にある機材操作卓からその模様を観覧していたのだが、そこからでも上空のタンクさんがびしょびしょになっているのがわかった。それは素人的な冷や汗ではなく、熱唱による発汗であったと信じたい。 そして、巨大三脚付近に陣取っていたハスキーズの人たちはこの晴れ舞台での大事故に対しても寛容な反応をみせていたのだが、その他会場の大部分を占めるハスキーズ以外の方たち(某商社の人事系の方々)の放つ視線の鋭さは尋常ではなかった。タンクさんは空中で完全に眼殺されていた。 会場に入場してくる新郎新婦へ向けられるはずだった注目の全てを己の肉体に受け止めたタンクさんは、巨大三脚から地上に降り立ち、一大プロジェクトを完遂させた漢の顔で一言。 タンクさん:「これでいいんだろ」 彼のかっこよさは私を感激で震えさせた。 今後も彼は完璧なエンターテイメントを我々に提供してくれることだろう。 そんなタンクさんも、来年めでたく・・・!??!!!??? |
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2011 10,17 17:35 |
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その日、あの無敵の暴れん棒将軍が沈んだ。 あれほどまでにショックのあまり思考が停止し、魂が抜けたように呆然と立ち尽くす人を、私は見たことがない。しばらく経ってその場から静かに離れてゆく彼の背中は、見たことがないほど小さく、周囲の空間はセピア色に彩られているように感じられた。そこに誠意大将軍の面影は全くなかった。 2011年10月吉日。我らが同期の中でも飛び抜けた有望株である徳田君と、彼の筋金入りの追っかけであるなっちゃんの結婚式がめでたく執り行われた。喜ばしいかつ責任重大なことに、ハスキーズの負の遺産の称号を欲しいがままにする我らが12代が2次会パーティーの幹事を任されていた。そんな負の遺産プロデュースのパーティーに、誰も知らない、いやむしろ知るよしも無いサプライズが隠されていた。 パーティーはいたってノーマルなスケジュールが組まれていた。 新郎新婦入場→開会挨拶→友人による乾杯の挨拶→ケーキカット→プロフィール映像→余興×3→閉会の挨拶→新郎新婦退場 当日参加されていた人はこのどこにサプライズがカチ込まれていたか気づいたであろうか。ヒントは、あるタイミングで、パーティーに邪な出会いを求めて暴れん棒を振り回す誠意大将軍ことD-ROADのテンションがガタ落ちした瞬間である。 隠されたサプライズは、「友人による乾杯の挨拶」のパートであった。パーティーの2週間くらい前からおおまかなスケジュールは既に組まれており、それぞれの役割分担も割り振られていた。そして当初乾杯の挨拶は、「勇者モリンボによる今世紀最大の乾杯ポエム」が予定されていた。しかしそれから新郎新婦側とスケジュールを詰めていく過程で、乾杯の挨拶は彼らの中高時代の同級生にお願いする運びになっていたのである。そのような重大なスケジュール変更があったにも関わらず、スケジュールを組んでいたわしは担当者の変更を最後まで周知しなかった!!そして、その事実を共有しながら最後までモリンボa.k.a.D-ROADに教えてあげなかった徳ちゃんも同罪の鬼畜である!!!! 今世紀最大のポエムを披露すること前提で当日を迎えていたD-ROADは、ポエムを考えるのに前夜の午前3時頃まで眠れなかったという。そして彼なりに大変なプレッシャーを感じていた模様で、午前から行われた披露宴にて少量のアルコールでいたく悪酔いしてしまい、昼過ぎには尋常ではない赤銅色の顔色をしておりなんと披露宴中にお亡くなりになっていた。決して酒に弱くない彼にしては珍しい現象である。今回ばかりは高砂席の新婦の料理を貪り食う余裕も無かった模様である。 披露宴が終わり、パーティーが始まった。そしていざ本番がやってきた。司会のONAKASENAKA部長が、「続きまして乾杯の挨拶に移らせていただきます。」と語るだいぶ前から、我らがD-ROADは司会台のすぐ脇にて直立してスタンバっていた。その直前まで会場のソファでゴミのようにくたばっていた彼の顔は、一転して決戦を直後に控えた戦士のように凛としていた。覚悟を決めた男の顔をしていた。そして、ONAKASENAKA部長は言った。 部長:「乾杯の挨拶は、新郎新婦の中高時代の友人であるM氏にお願いしております。それではM氏、よろしくお願いいたします!」 その瞬間、D-ROADの顔面は壊滅的なまでに表情を失った。 しばらくの間、事態を理解できていない様子であった。とっくにM氏が乾杯の挨拶を始めているというのに、D-ROADは司会台のとなりでずっと直立不動であった。その間何度もわしの作成したスケジュール表(未更新)を読み返していた。そして最後まで司会からD-ROADが紹介されることは無く、何事も無かったかのように乾杯がおこなわれた。 壊滅的な顔面のD-ROADは、何かを悟ったようにイスに崩れ落ちた。彼の目は虚空をさまよっており、時折誰にも聞こえないくらい小さい声でなにやらブツブツつぶやいていた。すぐ隣にいた人の談によると、「せっかく知恵を振り絞って考えてきたのに、どうすればいいんだ…」と水泡に帰したポエムをいたく哀れんでいたとのことである。 しばらく放心状態で黙り込んでいたD-ROADは、誰にも話しかけることもなく会場の人混みに消えていった。 しかし、スケジュールを組んだわしとしてもさすがに用意してくるであろうポエムが無に帰すのはかわいそうだと思っていたため、内密に「必殺ポエムずらし」を予め仕込んでいた。会場もまだ温まっていないタイミングの乾杯挨拶ではなく、我々の余興であるところの「D-ROADのぐちゃぐちゃミッキーマウス」というクソ安い出し物で来客者にD-ROADが何者なのかを認知させた後で、ポエムの時間を用意してあげていたのである。(こちらもサプライズだけど。) 虎舞竜の『Road』をBGMにまんざらでもない様子でスポットライトを浴びたD-ROADは、「二人が出会ったのはStation、今日の二人はCongratulation」などという、韻を踏んでいるといっていいのかどうかもよくわからないゲロ安いHIPHOPポエムを炸裂させていたが、ポエムを詠う彼の顔は生き生きとして本来の輝きを取り戻していた。そして自信のポエムを詠み終えて完全に復調した彼は、その後ご満悦で会場にいた女子たちをたぶらかしまくっていた。(が、その様に強烈な嫌悪感を抱いていた馬場もとい石谷女史は、最後の切り札である「その人既婚者です」のカードを早々にきったため、彼は周囲の女子から読んで字の如くタコ殴りに遭っていた。やられて然るべき、とても微笑ましい光景であった。) そんな、お騒がせサプライズのよってアップダウンの激しい一日を過ごしたD-ROADであった。 |
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2011 09,12 13:30 |
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2011年の全日本選手権一次予選@ひたちなかにて。 なぜチームのキャプテンなる者が直々に試合を偵察していないのかというと、彼はよりによって試合の当日に乗るべき高速道路を間違え、あろうことか東京から関越自動車道に乗り新潟へと突き進むという不祥事を起こしたために罰としてオブザーバーを押し付けられたのである。その日から彼は『関 越雄』と呼ばれるようになったことは想像に易い。(ちなみに関 越雄の前は、『てっぺん とり雄』と呼ばれていた。こちらの由来は、先日の社会人選手権で我々が上位トーナメントから脱落してしまった後に、デリカット部長からの「これからのチームの目標はどうする?」という問いかけに対し、我らがキャプテンは両人差し指を天空に突き立て、脅威のどや顔で「てっぺん」と宣言したことは、伝説以外の何物でもない。) と、最安値を更新し続けるキャプテンに大役を任されたわしであったが、不意に襲ってきた眠気に逆らうことをせずコートサイドにて昼寝を決め込もうと思っていた。広大な芝生で寝そべっていると、視界に何やら安いオーラをまとった見覚えのある4人組がこちらに向かってくるのが見えた。日大のシュウヘイ、ヤイちゃん、ハル、スグルである。
初対面の彼らは、それはそれは純朴な少年たちであった。社会人の中に混ざってアルティをするという慣れない環境もあってか、表情や言葉遣いがすごく硬く、常に緊張が感じられるような雰囲気であった。 そんないかにも学生らしかった純朴な彼らは、アルティ界で最も遭遇してしてはいけない人物と接触してしまった。
その人物とは、
そう、安さの殿堂・どりんぼ。
チェコという隔離された環境で1週間ばかりどりんぼと濃厚接触を続けてしまった彼らは、徹底的に安さの美学を叩き込まれてしまっていた。それからというもの己の安さに磨くことに余念がない彼らは、寝そべっているわしのそばに来てたずねてきた。
グラサンでカモフラージュしていたので昼寝はバレていないと思ったが、余裕でバレていたらしい。そのため関 越雄先生には「ロキvsボンバーは、ロキが何個かブレイクしてたよ」と雑な報告しかできなかったが、その報告だけで関 越雄先生の求めるノルマは達成できたようで安心した。 会話はすぐに安い方向に流れ、二次予選の「日大vsロキ」の勝敗予想に移った。安さの殿堂・どりんぼはさすがに安い人種の心を捉える発言が的確であり早速こんなことを言い始めた。
どりんぼ「もし日大がロキに勝ったら、俺が全員に焼肉をおごったる!!」
これだけで終わっていれば相当の男気ポイント上昇が見込まれるのであるが、安さの殿堂はさすがにこれだけでは終わらない。
どりんぼ「ただし、俺が選んだ店ね!」 最終的に、男気よりも安い印象の方が上回ってしまうところあたり、さすが安さの殿堂の殿堂たるゆえんである。 そんな会話の中、ふとどりんぼの視線が、近くを通りがかった日大の男子の応援に来ていた女の子(1年生)にロックオンされた瞬間、それに気づいたスグルが「あの子だけはやめてください!まだ1年生なんです!まだどりんぼさんみたいなのの免疫が無いんです!」と懇願した。彼にはまだ理性が残っていることが確認でき、安心した。 その一方で終わっている発言をしている者もいた。 シュウヘイ「その他のだったら全然いっていいですよ」 何がいっていいなのかよくわからないが、一瞬にして後輩の女子たちをどりんぼの生け贄に捧げるという恐ろしい感覚の持ち主である。彼はかなり病魔が進行している。(彼はビーチアルティの試合の際、脱臼した肩を保護する三角帯を装着したまま試合に出るという常軌を逸した行動に出た上、最初は健全な手だけの片手キャッチだったのが、次第に興奮してきたのかまさかの両手キャッチを繰り出していた。このあたりの安さは、さすがにどりんぼ直伝のものを感じさせる。)
安いどりんぼとの口約束はなんだかんだ安い口実でうやむやにされるケースが多発するため、日大がロキに勝った暁には是非この証拠(安い備忘録)を片手にガッチリと焼肉をおごってもらっていただきたい。 がんばれ~! |
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2011 06,12 21:01 |
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2011 06,07 19:33 |
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とあるお休みの日の昼下がり。 新地の河川敷には草フリスビーを楽しむ集団がいた。 咲子、エクストラヴァガンザ、山P、ユリエ、ゆきの、たくちゃん(核爆)。 人もまばらな広大な草原で、事件は起きた。 草フリスビーの集合時間はとてもルーズなため、最初の方は全然人が集まっていない。下手したらフリスビーさえ無いことすらある。 わしはルーズさに輪をかけて大幅に遅れた時間に到着すると、広大な草原の中に圧倒的な存在感を誇る女の姿があった。 そう、咲子。 彼女は大地に片膝を突き立たままの姿勢で静止しており、その様はまるで出走前のジャスティン・ガトリンを彷彿とさせた。その後の彼女の動向に期待させるには十分な迫力であった。 わしが到着したところで5人しかおらずアルティもできなさそうであったので、わしは彼らに「ベジゴルフ」というフリスビーの新種目を伝授した。ベジゴルフとは簡単に説明すると、ペアを組んで、ショットガンタッチとゴルフを合わせたようなルールである。目標地点を定め、そこに向けて1人が走り、相方が投げる。パスが通らなかったら1打追加して同じ場所からやりなおし。そうやって目標に進んでゆき、少ない打数で目標地点まで到達したチームの勝ちという遊びである。 その時のチームは、「咲子・ゆきの・わし」vs「エクストラヴァガンザ・たくちゃん(核爆)」で競っていた。 一通りゲームにも慣れたところで、結構離れた地点にゴールを定め、ゲームスタート! こちらのチームは順調に一投目を進んだのだが、過激なゲインを狙うエクストラヴァガンザ&たくちゃん(核爆)ペアは一投目からミスを連発していた。こちらの一投目の距離まで進むのに四投くらい消費していた。 こちらの圧倒的優位のままコースを進んでいると、越えなければならない障害(←自分たちで設定)のちょうどコース上に、ブーメランパンツのみを装着したオッサンが日光浴をしていることが確認された。しかし、これだけ広大なスペースの中、ピンポイントでオッサンに迷惑をかけるようなことは絶対にないであろうと、誰しもが思っていた。 しかし、事件は起きた。 障害越えのタイミングで、スローワーが咲子、キャッチャーがわしというターンが巡ってきた。寝そべっているオッサンは目の端にチラッと入るものの、咲子とオッサンとの間には金属製のポールやオッサンが乗ってきたと思われる自転車が置いてあったので、まず危険はないだろうと判断。 わしは咲子を信じて走り出した。 バックのオープン巻きでもらえるように右側に膨らみながら走ると、阿吽の呼吸で咲子は渾身のバックロングを放った。 …え? まさかの逆巻き?????? わしは必死に背後から飛んでくるフリスビーを追いかけるが、逆巻きのバックロングはみるみるわしから離れてゆく。そして、フリスビーはうまいことポールをかわし、オッサンの自転車に向けて一直線に突き進んでゆく。 わしの心の声:「うわーこのコース、自転車直撃やん。こりゃオッサンにどやされるな~・・・」 飛んでくるフリスビーを見ていたオッサンはフリスビーが自転車に直撃する瞬間、当然のごとくスクッと顔をそらしてよけようとした。 ガツッ!!!!! しかし咲子渾身のバックロングはそれだけでは勢いを失わなかった。 自転車のサドル付近に直撃したフリスビーは奇跡的な方向転換を見せ、よけたオッサンの顔面に向かって尚も猛進を続けた。 ゴッ!!!!! 鈍い音と共に、咲子のバックロングはオッサンのこめかみにクリーンヒットした。 文句も言えずうずくまるオッサンに、ひたすら平謝りの一同。 よく晴れた昼下がりの草原で起きた、奇跡の事件であった。 その後、オッサンは何も言わずに服を着て、自転車で立ち去ったのであった。ホントすいませんでした。 |
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2011 05,27 21:28 |
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2011 05,21 15:16 |
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5月3日(火) 5日目 アメリカのアルティメットを体感した日 朝、Golden Gate Hotelで軽食をとった我々は、11:30開始のバークレー方面で行われるピックアップに参加するために乗りなれたBartの駅へ。もうこの頃になるとどの電車がどの方面に行き、途中の乗り換えはどこの駅ですればいいのかなどといったことが「地球の歩き方」などを全く見なくてもわかるようになっていた。 難なく最寄駅のAshby駅にたどり着き、そこからタクシーに乗り込む。この日のグラウンドはEast Bayエリアの海沿いで、グラウンドから海が目の前にあるというロケーションであった。海の向こうはサンフランシスコである。 さて今日のピックアップは事前に特に自己紹介などもなく、スッと混ざってスッと試合開始となった。レベルは以前のバークレーでのピックアップと同様で、そこまで高くなかった。また、我々のフライトによる疲労もとれており、本来通りの力が発揮できるようになっていた。そんな状況でアルティメットの鬼こと志村氏より、「俺は、魅せるプレーをしてみんなを喜ばせるため、積極的にダイブすることに決めた」なる宣言が飛び出し、恐ろしい勢いでダイブディフェンスを連発。また、こちらのチームではゾーンディフェンスをやることになり、それが偶然にもベジでのゾーンと同じ形であった。わしと志村氏でカップを組んだところ、バックアウト寸前まで追い込んだ挙句に、最後にはカップのわしがハンドのスイングをキャラハン。「You are the rule of the zone!」とアメリカ的な大げさな表現で褒められたが、ちょっとやり過ぎたな~とはずかしかった。その後も日本人2人はキュンキュン走りまわり、非常に楽しいアルティができたのであった。 2時頃アルティも終わったところで雑談していると、なんとその中に1人いた女性プレーヤーが“Sat”こと石井さんのことをよく知っているという話に(名前を忘れてしまいました…)。以前一緒のチームでどこかのビーチの大会に出たことがあるとのこと。こんなローカルな場所にも石井さんの名前を知っている人がいるのか!と、改めて石井さんのアメリカでの影響力の大きさを実感したのであった。そのおかげで帰り道は駅まで車で送ってもらってしまい、その女性プレーヤーにも石井さんにも感謝が尽きないのであった。 次の予定は、再びサンフランシスコに戻り、昼食。なぜサンフランシスコに戻ったかというと、なんと後輩のゆきの君が偶然同じ時期にサンフランシスコに来ているとのことで、時間を合わせて昼食をとることにしたのであった。 3時頃にフィッシャーマンンズワーフの観光スポットであるピア39にて合流し、その流れで昼食へ。サンフランシスコ名物(?)のクラムチャウダーをいただいた。ここで摂取したビールが後であれほどまでに自分を苦しめることになるとは、この時点では全く想像していなかった。 多忙な我々は6時半からUCバークレーのグラウンドで、昨日Bart Watson氏から誘われたGoaltimateに参加するため、5時前にはゆきのたちと別れて再びバークレーへと旅立った。 そして、ちょうど6時半頃、グラウンドに到着。フリスビーを投げている集団を発見したところ、午前のピックアップの人たちとは明らかに肉体の構造が違う人種の方々が揃っていた。最初わしはGoaltimateとはDisc Golfのようなものでそんなに走らないものと思いこんでいたのだが、なんだか様子が違う。そして、なんだかよく見るとワールドゲームスのアメリカ代表や、UPAのDVDに映ってたような人たちがぞろぞろ揃っている。 ???ん?僕は来るところを間違えたのかな???? するとその集団の中には昨日会ったBart Watson氏もおり、こっちへおいでよとのこと。そして一通りGoltimateの説明を受けた。Goltimateとは簡単に説明すると、アルティのハーフコートくらいのサイズで行う、アルティ+ホットボックスのようなゲームである。バスケのストリートバスケのアルティ版というとイメージがつきやすいかもしれない。やってみればすぐわかるよ!とのことだったので、程なくGoltimateが始まった。 …。 …。 きつい!とにかくきつい!!!事前のイメージと全然違って走りまくる!しかも相手はワールドクラスの方々!! 午前にピックアップの試合を行い、巨大な荷物を背負って長距離の移動をし、わしに至ってはビールまで飲んだ後であったので、ここのグラウンドにつく頃にはほとんど1日のやることを全て終えたくらいの達成感があったところにトドメのGoltimateである。開始早々に体が悲鳴をあげた。 テキトーなDisc Golf大会をイメージしててのこれなので、その衝撃はあまりにも大きかった。そして、まさかこんなに死に物狂いにプレーしなければならないなんて夢にも思っていなかった。一瞬でも気を抜けばワンツーで走られてスコアされてしまうので、その場の雰囲気的にも気を許すことのできる瞬間が全く無い。 「5点先取!」という声が聞こえ、5点入ったのでやっと休憩に入れると思ったら、ゲームは途切れることなく続いた。既に昼に飲んだビールのせいでゲロを吐き散らかしそうなほどぐちゃぐちゃに疲労しているわしは困惑し、まわりの選手に「え、このゲームはエンドレスなの!?」と聞くと、「そうだよ、5点先取のゲームが連続して8時くらいまでは続くよ」とのこと。 殺人的すぎる…。 しかし、自分がどんな状態であろうと気を抜いた瞬間にやられてしまいチームの足を引っ張ってしまうので、本当に死に物狂いでがんばった。Revolverの選手とか、元Jamの選手とかとプレーができてうれしいとか感慨に耽っている暇など全くなく、生きるか死ぬかくらいの心持ちであった。チラッと志村氏を見てみると、志村氏も半分死にかけている顔をしていらした。 しかしこのGoaltimateというゲームはスピード感とタイミング(ストーリングカウント6から入るため)がものをいうので、自然とアプサイやスクーバなど普段あまり投げないスローの機会が多かった。この2時間だけで一生分のスクーバやアプサイを投げたのではないか。自分だけではなく周りもそうだったので、普段のアルティとはまた別のスペースの使い方が求められ、また狙いもいつもと違うものであった。特にシュートの際にはみんなキチガイみたいな速度のチョップなどを平気でブン投げてくるので、わしは幾度となく頭をカチ割られそうになった。こんなのを週に2回もやってれば、そりゃ体力もつくわスロー力やキャッチ力がつくわという感じであった。日本でも、練習のスペースがなかったり少人数だったりしたら是非取り入れてみたいと思った。そういう意味でとても良い経験であった。 半分記憶が飛ぶくらいつらかった、2時間に及ぶGoaltimateが終わった瞬間、わしは読んで字の如く大の字に地面に倒れ込んだ。そのまま5分くらいは停止していたことだろう。練習後に元JamのGabeなどと話してみたいと思っていたのだが、彼らは練習が終わると特にダウンをすることもなく早々に帰ってしまった。彼らにとっては慣れた運動だから特に疲れたりはしないのであろうか。その一方で全く慣れない運動に疲弊しきった我々は帰る支度ができるまでに30分以上かかってしまった。まだポツポツ残っていた選手がいたので、日本から持ってきたおみやげの笹団子を振舞った。しかしその大半はエネルギー切れが甚だしかった我々で食べてしまったのだった。 結局グラウンドを出るのは夜の9時になってしまった。そしてここはバークレー。宿はサンフランシスコにとってあったので、その移動がまた絶望的であった。限界まで疲労しているところに20kgの荷物を担ぎ、駅まで徒歩20分。そこからBartで20分。そこからタクシーで15分。想像するだけで途方に暮れそうになった。とりあえずバークレーの駅近くで夕飯のためカレー屋さんに入ったのだが、わしはあまりの肉体疲労で米粒10粒くらいしか口に入らなかった。 なんとかかんとか宿に辿り着いた我々は、最終日である明日の予定を何もたてる気力が起きないまま、泥のように眠りについたのであった。 サンフランシスコでやり残したことはもう何もないと感じさせる、凝縮された一日だった。 |
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2011 05,20 11:02 |
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5月2日(月) 4日目 アメリカの風早くん 月曜日は週の初めのためか、興味深いピックアップがなかったため観光の日とした。朝にバークレーを出発し、サンフランシスコの中心地である坂がいっぱいある通り(Powell Street)付近を中心にフラフラした。まず宿は「Golden Gate Hotel」という老舗っぽいホテルを選んだ。ホテルのロビーには看板犬と看板猫がおり、極めて人懐っこくておとなしいため、これまで数多くの観光客に撫でちらかされたことが想像される。当然わしも撫でちらかした。またエレベーターも非常にアンティークなもので、手動の二重扉を両方とも手で閉めてからボタンを押すような、初めて見るものであった。ここのホテルのオーナーはおじちゃんとおばちゃんはとても人が良さそうな方たちで、とても親切に対応してくれた。サンフランシスコに来たら、是非「Golden Gate Hotel」に! この日はひたすら観光した。名物のケーブルカーに乗り、観光名所のフィッシャーマンズワーフを散歩し、シティーホールという市役所みたいな建物にも入った。ただ1点わしの誤手配でサンフランシスコジャイアンツの試合を観にスタジアムまで行ったら別会場での試合でBaseballを見ることができなかったという失敗があった。 そんなこんなで夜の時間になり、我々は小腹を満たすためBartのPowell駅近くの「Lefty O’dnel’s」というベースボールバー&レストランみたいな店に入った。コテコテの内装がいかにも観光者向けといった感じだったが、観光者の我々にはとても刺激的な空間であった。 その店で、わしはそわそわしていた。なぜなら、もう少ししたら2010シーズンのRevolverのキャプテン、Bart Watson氏が合流する予定であったからである。そわそわしまくっていると、遂にその瞬間がやってきた。3月に幻のドリームカップのために来日した際に会って以来、約1ヶ月ぶりの再会である。いろいろ積もり積もった話や、先日のRevolver練での失態の懺悔など、会話は止まらなかった。というのも、わしの英語が上達していた訳ではなく、Bart氏がホント誠実に我々の話すことに耳を傾け、ぐちゃぐちゃな文法の英語を理解しようとしてくれていたのである。また、彼の英語のスピードは速いものの、内容はアメリカを知らない日本人でもわかる話題を選んで話してくれているようであった。そんなこともあり、とても気持ちよく会話させてもらった。そこで、翌日5月3日の18:00からUCバークレーのグラウンドでGoaltimateをやるから来ないかい?と誘われた。もちろん行かない訳はないのだが、後にあんな大変な目にあうとはこのときには夢にも思わなかった。 一通り食事も終わったところでBart氏は、「じゃ、次のBARに行こうか!」と、我々を次の店に連れて行ってくれた。そこはLefty O’dnel’sからほど近い場所にある、「Golden Gate Bar」という、バンドがライブ演奏しているBarであった。サンフランシスコでは最も老舗のBarとのことだ。店内は非常に陽気な雰囲気に包まれており、音楽もその雰囲気にピッタリでとても気分がよかった。そんな激シブな店でビールを一杯飲んだところで、「近くでDamianやJ.Z(元Jamの選手)とかが集まって飲んでるみたいだけど、合流するかい?」との提案があったため、二つ返事でOK。次の店へと向かった。 次の店は少し離れた場所にあった。なんか見覚えある景色だなと思ったら、どうやら初日に行ったBeauの家に若干近いらしい。サンフランシスコでの距離感がなんとなくわかってきた。 店は郊外にあるローカルなBarで、何という店の名前かも覚えていない。そこにはDamianなどアルティ選手が4人ほどいた。テキトウに話していると、Bart氏はIrish Coffeeという、サンフランシスコ発祥のカクテルを教えてくれたので、早速注文。コーヒーリキュールにクリームを混ぜるカクテルで、その味は甘党ぅーのわしの心を捉えて離さなかった。茅ヶ崎の斉藤さんちで注文したいメニューが1つ増えた。 そのBarで見ていたNBAのLakers vs Mavericksが終わったところで、我々も帰ることに。Bart氏の車には(あれ?)我々の他にJ.Zも乗り、J.ZもBeauとDamianと同じ家の住人なので途中で降ろしつつ、Golden Gate Hotelへと向かった。 Bart氏と会ってからものの3時間くらいしか一緒の時間を過ごさなかったが、彼の親切を感じるには十分すぎる時間であった。一気に彼のファンになったことは言うまでもない。 |
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2011 05,18 17:57 |
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おまたせしました。
写真を公開しましたよ!! いつものごとく、名前間違ってたらすいません。 左のリンクの中の、「2011年ビーチアルティ」から進んでくださいな! |
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2011 05,17 17:09 |
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翌日業務があるのはわかっていながら平日の飲み会で悪ノリしてしまい、翌朝目が覚めた時に激しい頭痛と胃もたれにやられてしまっている自分に絶望するという経験は、誰しもが一度は経験しているはず。 しかしながらそんな状態であっても企業戦士は何くわぬ顔で出社しなければいけないという悲しい現代社会。 そんなあなたに、みんなの健康の味方ことわしから朗報。 以前にも紹介した茅ヶ崎のBARこと「斉藤さんち(仮)」のバーテンダーであるところの斉藤さんから「二日酔いの特効薬」を伝授してもらったので、飲み会前後の体のケアと共に紹介させていただきたい。 (注:医学的な見地からの発言ではないので、そこのところよろしくです。) ① 飲み会前 みんなの友達、ウコソを飲む。 ② 飲み会中 とりあえず翌日のことは気にせず楽しく飲む!ストレスも悪酔いの要因に一役買っている気がしますね!それでも明日のことが気になってしまう人は、「グレープフルーツサワー」とかグレープフルーツ系がオススメ! ③ 飲み会後 アルコールの分解のために水分がたくさん使われるそうなので、水をゴブゴブ飲む。 ④ 二日酔いの朝 朝起きて、「あれ、頭が痛いぞ…」「今日会議2本あるのに…死にたい」。それでも出社しなければいけないリーマンの宿命!しかし頭が痛い。二日酔いだ。 そんなあなたに!!! グレープフルーツジュース!!!!!!!!!! 二日酔いの朝は、なるべく早くグレープフルーツジュースを飲みましょう!そして何かごはんを食べることも忘れずに。 そして、なんとか休み時間までは頭が痛いだろうがそこだけは気迫でがんばるしかない。かなりうつむき加減に業務をこなし休み時間に入ったら、とにかく何か食べて、その後にまたグレープフルーツジュース!そして、10分でもいいから昼寝!! すると!! 目を覚ました時!!!!!! シャッ、シャキーソ!!!!!!!!!!!!!!!!!!! そう、不思議と頭痛が収まっているはず!!!この身で既に3度ほど経験している。不運にもグレープフルーツが無ければ、アップルジュースでもある程度効果があるとのこと。(わしの独断と偏見では、やはりグレープフルーツ!) ただしオススメのグレープフルーツジュースとは対称的に、二日酔いの時に絶対に飲んではいけないジュースが。それは、オレンジジュースやパインジュースなど、酸味の強いジュースはNGとのこと。バーテンダーの斉藤さん曰く、二日酔いの日にオレンジを飲んでしまったら、もうこっちに帰ってこれなくなるとまでのお言葉をいただきました。同じビタミンC系の柑橘系であるが、似て非なるものとのことなのでそこのところは特にご注意いただきたい。 それでは今日も激務の企業戦士の皆さん、業務後の業務も左手にウコソ、右手にグレープフルーツジュースでがんばっていきましょう! |
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2011 05,16 15:06 |
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「ラムコーク10杯頼んでドヤ顔」 稀に見る、楽しさ200%のけんが飲みほ会場にて炸裂させたオーダー。行き先のないラムコークたちの大半を自らが受け取り、ドヤ顔。 「パイちゃん」 ペロ紅さんが飲み会0次会にて、自ら高校時代の破廉恥なあだ名をカミングアウト。男子からも女子からも呼ばれてたんだよっと、なぜかちょっと得意げであった。パイちゃんの由来は、彼の分厚い胸板によるものらしい。 「僕には何もできない」 渾身のバックロングが、大自然の風さんの力によって押し戻されて5mくらいしか飛ばなかったことを受け、地面に頭から突き刺さるように土下寝を繰り出したペロ紅さんの発した言葉。 「思い出を共有できない」 豪傑・山Pの赤裸々な悩み。飲み会の場では楽しかったはずなのに、翌日の会話でちょくちょく周りと記憶の差異が生じてしまう症状。
「格の違いを見せつけてやった」 ベッカムvsドーラのガチバトル中、わしを飛び越えての限界キャッチ(しかもディフェンス)を見せた石野氏の勝者のセリフ。格の違いをまざまざと見せつけられたわしは「ナイスキャッチ」と大人ぶることしかできずガビーソorz
「僕は甘えていた」 無配慮に乙女のダイヤモンドを流させてしまったことに対する、たくちゃんの懺悔の念が込められた一言。
「奥行きが異常」 たくちゃんの背負っていたリュックの構造。持ち主の体の倍ほどの奥行きを誇るその代物は、巨大なランドセルを彷彿とさせた。ゆきの曰く、「どうしてそんなことになるの?」
「ハイパーデス井ロケット2連射」 vsIKUで見せた、竹井のスーパーストーリングダイブブロック。1発目は相手がフェイクしただけだったので、誰しもが不発に終わったと思ったところに、間髪入れずに2発目のパトリオットが砂中より発射。見事、相手のサイドスローによって放たれたディスクに直撃!
「引き留めろ」 深夜2時、某女子部屋への侵入に成功したロドリゴ(仮)が、なんとかして追い出されまいと食い下がろうとしてわしとマンゴー氏(仮)に送った、どうしようもない悪あがきメールの文面。しかしその努力も虚しく丁重に部屋を叩き出され、ロドリゴの初夏の夜の夢は終了。
その他、心に残る素敵な日本語の投稿をお待ちしております。 |
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2011 05,13 17:12 |
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5月1日(日) 3日目 ピックアップ in Berkeley 今日は午前と午後で、ピックアップゲームのダブルヘッダーである。午前の部は11:30からBerkeleyからさらに東に電車で15分ほど行った、Walnut Creek(以後ウォルナッツ)という場所で行われるとのこと。9:00頃チャイナタウンを出発し、最寄りのBartの駅へと向かった。サンフランシスコの中心地の特に駅周辺には浮浪者が多くいるのだが、道中驚くべき光景を目にした。バス通りのような比較的広い道の歩道を歩いていると、前方に歩道を横断するように堂々と寝そべっている人がいた。だんだん近づいてくると、おや??と思うことがあった。彼が着ている服、どこかで見たことがある…。紺と緑と黄色のトミー柄のジャケット…。 横柄なまでに路上に肩肘をついて横たわり、無造作にピッツァを召し上がっている方は、、、 そう、どりんぼ そんな奇跡があるのかと思って後ろから「おいおいどりんぼ、こんなところで朝食かよ!!?」と声をかけようとしたところ、よく見たらただのどりんぼと同じ格好をした浮浪者であった。それ以来サンフランシスコの浮浪者のことを「オトモダチ」と呼ぶことにしたことは言うまでもない。 さてさてそんな界隈を抜けてBartの駅に到着。一路東へ。20~30分くらい電車に乗りウォルナッツに近づくにつれて、これまでのサンフランシスコとは風景がガラッと変わり、山と緑に囲まれたのどかな風景がひろがった。サンフランシスコが日本の新宿や渋谷だとすれば、ウォルナッツは辻堂といった感じだった。ザ・アメリカの日常といったような街並みの中を歩き、目的地の公園に到着。遠くにフリスビーが飛んでいるのが見えるが、どう見ても2人しかいない。とりあえずその2人に話しかけてみた。 わし:「こんにちは。今日ここでピックアップゲームやるって聞いたんですが??」 アマン:「こんにちは。今日この公園は養生のために閉鎖だから、ピックアップは別の場所でやってるんだよ。ここから6~7マイル離れてるから、車でないとキビシィね。君たちは歩いてここまで来たのかい??」 ガビーソ、別の場所~。。。タクシーを拾えば行けなくもないが、時間もお金ももったいなかったのでここでスローして遊ぶことにした。2人の名前はアマンとデイブ。以前大学時代にアルティをやっていたが、現在はクラブチームなどではプレーしていないという。 とりあえず4角形になってテキトウにスローをしていると、アマンがいきなり技を繰り出してきた。サムネイルと呼ばれる(?)、親指にディスクのふちをひっかけてアップサイみたいに投げたり、バックハンドみたいに投げたりする投げ方である。我々日本人があまりうまく投げられないからか熱心に教えてくれていたのだが、 アマン:「Ouch!!」 突然アマンが手で肩を抑えどこか遠くのほうに歩いて行ってしまった。 デイブ:「ショルダー??」 アマン:「Yeah.」 あまりに無邪気に投げ過ぎてしまったため、肩の古傷を痛めてしまったらしい。5分ほど離脱したアマンは、再び戻ってきてスローに加わった。 わし:「やっぱしその肩は、アルティでダイブしたときにやってしまったんですか??」 アマン:「いや、スキー滑ってて脱臼しちゃってね。Hahaha。」 どこまでもお茶目なアメリカンであった。アマンとデイブのやりとりがあまりにも我々の想像するアメリカンコメディだったので、ピックアップゲームのことも忘れて遊んでしまった。 しばらく投げていると警官がやってきた。 ポリスマン:「この公園は今日はクローズしてるから入っちゃだめだよ。」 わし:「…(あ、それさっきアマンも言ってた気がする)。」 アマン「Hahaha,、ごめんよチームスポーツだけがダメなのかと思っていたよ。すぐにずらかるよ。」 アマンはホントにいいダチ公であった。そしてホントにいいスマイルをしていた。 ポリスが来たところでスロー遊びもお開きとなり、彼らと別れて次のピックアップに向かうことにした。 午後のピックアップは、サンフランシスコとウォルナッツの間くらいにあるバークレーにて4:30から行われるとのことだった。先のウォルナッツでピックアップがなかったたためだいぶ時間を持て余した我々は、昨日に引き続きUCバークレー校のキャンパスツアーに繰り出した。 UCバークレーは、スタンフォードとはまた違った趣があった。スタンフォード程の派手さはないが、森のような木々に囲まれていてとても閑静な環境であった。しかし大学グッズ売り場はここでも健在で、なんと3階建ての建物丸々一棟が大学グッズのための売り場であった。ここでも様々なスポーツメーカーとコラボした商品が売られており、大学スポーツの盛り上がりもすごいんだろうな~と思ったのだった。 キャンパスツアーの後は、いよいよピックアップである。キャンパス付近でタクシーを拾い、やくざなおばさんドライバーの相手をしながら少し走ると、いかにも町にあるグラウンドといったようなグラウンドに到着。フリスビーが飛んでいるところに向かった。 35~45才くらいの少し年齢層の高めのおじさんたちが15人くらい集まり、ほどなくアルティが始まった。名前は忘れてしまったが、以前横須賀に住んでいて茅ヶ崎のことを知っているとっつぁんがいて驚いた。志村氏が、「横須賀ということは、彼は海軍出身なのではないか!!」と、鋭く推測していた。その推測があたっていたのか、そのとっつぁんはとにかくビシバシまわりに指示を下していた。おまえら俺のアップサイを狙いやがれい!とか、ディフェンスをもっとタイトにつきやがれい!とか、次のセットはゾーンをやるからおまえカップに入れい!!など、ビシバシ指示された。ゾーンのカップって、一体何のゾーンやねん!という感じだったが、全体的にさほどレベルの高くないピックアップだったので、ほどほどに様子を見ながら楽しんだ。鬱陶しいことにたまに志村氏が自分のディフェンスについてきて、ここはバークレーなのにあたかも柴又での練習が如くガチで止めにきていらした。 約2時間ほど、休憩なしのノンストップで延々とアルティをした。終盤になるとおじさんたちの足は完全に止まってしまい、元気に走っているのがわしと志村さんだけといったような状況になり、「You are the scoring machine!」という「え、得点板!??」みたいな雑な褒め言葉もいただいた。雑といえば、その時ハスキーズのユニを着ていたため、「みんな犬にディスクを投げるんだ、ワンワン!」という雑なギャグのネタにも使われた。とてもロハスなアルティであった。 アルティが終わり、日本で買ったおみやげをみんなに配ったりしていると、先ほどのとっつぁんがやってきて、「わしのディスクを受け取れ!そして裏にメアドが書いてあるからメールしろ!」とばかりに、現地のディスクをくれた。お返しに自分が持ってきたディスクを渡そうとすると、「気遣い無用!さらば!」とばかりに、颯爽とどこかへ消えていった。 その日の宿はBartのSouthern Berkeley駅近くの中華系ホテルみたいなところをとった。安い割にキレイで、アルティ系男子には何も問題のないクオリティーであった。夕飯は志村氏による、「軽くスポーツバーのようなところで1杯ひっかけてから、ハシゴしちゃう?」という男気溢れる提案が採用された。シーフードの揚げ物のようなおつまみと、ザ・アメリカなピッツァのコラボレーションはとても心地よいものであった。良い気候でビールもうまかった! そんな平和な5月1日。 |
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2011 05,12 17:48 |
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4月30日(土) 2日目 Revolver練 Revolverの練習はサンフランシスコより南の地域にある、スタンフォード大学のグラウンドで行われるとのこと。練習開始は10:30とのことだったので、結構朝早くBeauの家を出発する必要があった。 出発前にWoodyやDamianに挨拶していこうと思ったが、朝8時くらいにはまだ全く動きだしていなかったようで全く人気がなかったので、やむなくそのまま家を出ることにした。もちろんWoodyへのお礼メールでフォローしておいた。 サンフランシスコからスタンフォードのある「Palo Alto」へはCal Trainという、昨日乗ったBartとはまた別の種類の電車に乗る必要があった。Cal Trainの駅周辺のカフェで朝食を食べたのち、Cal Trainに乗り込んだ。土日の運行は1時間に1本しかないということを知らず、9:15サンフランシスコ発の電車に乗ることになってしまった。Palo Alto駅へは約1時間の乗車時間のため、せっかくのRevolver練なのに遅刻がほぼ確定。車内にてRyo Kawaoka氏に詫びメールを入れた。 約1時間、西海岸の素敵な風景を見ながら南下。Palo Alto駅に到着。Palo Alto駅からスタンフォード大学は徒歩5分くらいでたどり着けたが、その敷地面積のスケールのでかさに驚愕!!!校門からグラウンドまで、軽く徒歩20分はかかった気が…。そんなこんなで、約1時間遅れの11:30過ぎにRevolverの面々のいるグラウンドに到着。あからさまに体格がいい人がいっぱいいる集団が見えたので、すぐにわかった。 Revolverの人たちはダッシュなどの体力練をしている最中だったが、その横でいろいろ指示をしているコーチらしき人に声をかけてみた。「日本から来たんだけど、練習混ぜてもらえますか??」一応Ryo Kawaoka氏とは連絡をとっていたものの、いきなりこんな雑なお願いをした日本人を快く迎え入れてくれた。10分くらいでアップして、チームに合流。いきなりの紅白戦であった。こちらのリーダーはRobbie Cahill氏。うわー、DVDで見たことある~とか思っている暇もなく、戦術の説明。今シーズンRevolverは“サイドスタック”というフォーメーションを積極的に練習しているらしく、その理論について説明を受けた。もちろん説明は英語だったし、サイドスタックは初めての体験だったので、ミドルに入ったわしはとりあえず邪魔にならないためスペースをあけての裏の合わせに徹した。やはりアメリカらしく、みんなガシガシオープンサイドに仕掛けていくので、わしはいい感じで彼らの仕掛けの次のインサイや裏でパスをもらうことができた。2、3本そつなくパスを捌き、遂にやってきました絶好のチャンス。かなり深いインサイドアウトでパスをもらってからの、渾身の裏バックロング!!アメリカ本土での初バックロングが通った!!Robbie Cahill氏に「Good working!」と褒められましたでへへ。 しかし調子が良かったのも最初のうち。慣れないロングフライト直後だったためか、一度息があがったら全然呼吸がなおらないし、それよりなにより足が鉛のように重くなってきてしまい、全く思い通りに走れない!オフェンスではそれなりにごまかせたものの、ディフェンスではボロボロだった。ガビーソ。 紅白戦の後は、エンドゾーンくらいのエリアの中での3対3。これはきつかった!!みんなガシガシワンツーに走るし、オフェンスでも少人数だから手が抜けないし、最悪のコンディションの中まさに地獄であった。あまりに呼吸が苦しくて目の前はピカピカ光ってくるわ、足は全然動かないわでひどく迷惑をかけてしまった。そして、世界のMac Talor君とマッチアップしている最中、サイドロングを投げたときの踏み込みの瞬間に、まさかの右足が激攣り!!こういう時の英語を知らないので「しぇ~~!!」と悲痛な叫びをあげているとみんなが集まってきて、Mac Talor君が介抱してくれた。まじ情けない…。 3対3の後は、再び7対7の紅白戦。引き続き息は苦しかったし足は重かったものの、それなりにこなした。必死だったためあんまり記憶はないけど、なんとかゴールもしたっけな?? 紅白戦が終了したところで、本日の練習は終了。「今日参加してくれてありがとう、日本からのゲストもありがとう」みたいな挨拶の後、みんなで円陣を組み、「1,2,3 Revolver!」。ガイジソの声だしはなんでだかサマになるなぁ。 Revolver練の後は、スタンフォード大をキャンパスツアーした。果てしなく広大なキャンパスをひたすら歩き、美術館(なぜキャンパス内に!?)やブックストアー内にあるキャンパスグッズ売り場などいろいろ巡った。キャンパスグッズ売り場は日本のそれと比べケタ外れに広く、まるで日本の学校の体育館くらいの面積はゆうにありそうな程であった。ナイキやチャンピォンやアンダーアーマーなどのメーカーとコラボしてグッズを販売しており、アメリカの大学グッズ市場の大きさを感じたのであった。少し憧れたが、日本とアメリカでは経営の規模にあまりにも違いがありそうなので、何事も同じスケールでは測れないなというのが正直な感想である。キャンパスは緑豊かであり、ミントのような素敵な香りがわしのRevolver練でのガビーソな思い出を癒してくれた。 キャンパスツアーをしているとなんだかんだで夕方くらいになってしまい、再びCal Trainでサンフランシスコに向かった。市街地の中心に程近いチャイナタウン内にあるホテルに入り、とりあえず今日身を落ち着かせる場所を確保した。アメリカにはよくあるタイプのようなのだが、バス&トイレが他の宿泊客と共用であった。 その日は特にこの後用事があったわけではないので、とにかくチャイナタウンを中心にプラプラ散歩した。土曜日であったためかお店がことごとく早い時間に閉まっていた。街を歩いていると、あからさまにいい味を出している「International Food Court」という看板があり、その奥にある野外のフードコートに侵入し、その中でなぜかイタリアンを食した。ひたすら2人でRevolver練での反省を述べあい、「また機会があったらリベンジしたいね」と傷を舐め合ったのであった。 |
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2011 05,11 16:52 |
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4月29日(金・祝) 出発の日 待ちに待ったこの日だが、モーレツリーマンでおなじみのわしはこの日は夕方まで出張業務であった。 朝からスーツ姿で15kg以上ある荷物を背負い、途中横浜駅の大型コインロッカーに巨大な荷物を叩き込んでから出張先であるパフシコ横浜へと向かった。 特に問題もなく業務は終了し、職場の方たちと軽く打ち上げをしてから、いざ羽田国際空港へ。横浜から羽田は意外と近く、22:00チェックインの1時間以上前に着くことができた。 羽田空港で今日の業務で着用していたスーツを自宅に送ったり、おみやげを買ったり、江戸小路なる和のテイストを前面に押し出したシャレオツスポットを闊歩したりしていると、今回の旅仲間である志村氏がやってきた。 程なく2人でチェックインし、特に何事もなく深夜00:20にサンフランシスコ行きの飛行機は離陸した。 約9時間後、無事にサンフランシスコ国際空港に到着。現地時間は日本より1日遡るため、4/29(金)の17:30くらいだった。始めて見るサンフランシスコの眺めは、広かった。高い建物がほとんどないため、ほぼ地形の形そのままを見渡すことができた。 サンフランシスコではレンタカー移動を計画していたため、空港内にあるレンタカー屋へ。慣れない英語に悪戦苦闘しながらも一番安いプランの見積りを出してもらうと、「6日で$950」とのこと。。。高すぎる。。。志村氏と相談の上、レンタカーは見送ることに。急遽サンフランシスコのローカル電車「Bart」での移動を決めた。 4/29の宿は、Beauのシェアハウスに泊めてもらうことになっていた。が、Beauはしばらく外出中とのことだったので、代わりにルームメイトのWoodyが自分たちの面倒をみてくれることになっていた。Woodyは元Jamの選手で、自分たちとは全く面識がなかったのだが、とても気を遣ってくれた。空港からの道順とか、「車で迎えに行ってあげようか?」など、こと細かに連絡してくれたためとても頼もしかった。 結局Beauの家の最寄駅「16th Street, Mission」までBartで移動し、そこからGoogleMapさんを頼りに20分くらいかけて歩いておうちに到着。家の前でウロウロしていると、中からWoodyが出てきて、招き入れてくれた。「俺の家を自由に使ってくれ!」というような、日本的なおもてなしとはまた違うアメリカンな気遣いをしてくれた。シェアハウスは2階+地下でBeauの部屋は地下にあり、我々は留守中のBeauの部屋を使わせてもらうことになった。Beauの部屋は6畳一間くらいの大きさで、巨大なベッド以外には特に生活感を感じるようなものは置かれていなかった。必要最低限の服や、ユニなどが雑然と置かれているという感じだった。 とりあえず荷物をおろしたところで、シャワーを借りた。シャワーから出ると、新顔の男女がいた。Damian(元Jamの選手)とTara(ツァイストガイストの選手)だった。Damianはこのシェアハウスの住人であり、Taraはサンフランシスコの北に車で3時間くらいのところに住んでいるらしく、今日は遊びに来たのだという。 そんなこんなしていると、Woodyから「みんなで外出するが、おまえらも来るか!?」みたいなことを言われたので、オフコース。家について間もなくすぐに外出することになった。家の外に停めてあったDamianの車に乗り込み、どこかへ連れて行かれた。初日には全く地理感覚がわからなかったが、後で思い返してみるとどうやらサンフランシスコ中心地だった模様。都心の野外シャレオツバーみたいなところにたどり着くと、そこには見知らぬガイジソがいっぱいいた。わけもわからず彼らと相席になり、そのうちの一人に「Woodyとはどういう関係なんですか?」と聞いてみると、「俺らはWoodyの仕事仲間なんだよ!」とのこと。連れて来てくれたDamian&Taraですら若干アウェーな雰囲気なのに、我々しょぼジャップ×2は成す術なし。まさかいきなりアルティ関係者以外の人と英語で一般的な雑談をすることになるとは夢にも思わない展開で、なんだかよくわからない雰囲気の中サンフランシスコ初の夕飯を食す。 「じゃあ俺は出かけてくるから、楽しくやってくれ!」と、Woodyまさかの突然の退席!!え??いわゆる放置プレイ???するとDamian&Taraも帰宅モード。「俺らは帰るけど、君たちは残っていくかい?」残るわけが無い!!ホントに家に帰れなくなってしまう!いやいや、わしらも帰ります!との意志を必死に伝え、Damian&Taraと共に帰宅。 いやー、大変な夕食だった~と一息ついているところに、RevolverのRyo Kawaoka氏より、「明日のRevolver練に来てもいいよ」との連絡が。翌日の予定も決まったところで、サンフランシスコ初日の就寝となりましたとさ。 地下にあるBeauの部屋は外と直結しているガレージの隣にあったため、夜はかなり冷えた。わしはBeauのベッドで寝かせてもらったが、武士道精神の男志村氏は床に転がって寝ていたため、大そうお冷えになったとのこと。床でガクプルしていらっしゃった。 |
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2011 02,11 17:05 |
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ハスキーズの歴史に、あまりに凄惨な事件であったため、語られることがタブー視されている出来事がある。 今回、皆の記憶から薄れ闇に埋没してしまうことの方が危険であると思い直し、わしは勇気を振り絞って筆をとった。 それは、2006年3月に行われた園遊会でのこと。 園遊会とは、卒業してしまう4年生が主催し、下級生たちと学生最後の交流を楽しむイベントである。ちなみに、2006年の園遊会は、負の遺産と呼ばれる12代目の我々が主催した。 場所は伊勢原の山奥にあるキャンプ場。夜になると1m先も見えなくなるような漆黒の闇に包まれる、現実と隔離された空間であった。 我々の代以前にも何度かこの施設は使わせてもらっており、毎年多くのハスキーズの選手が帰らぬ人となった。自らの寝ゲロが吐き散らかされた上でローリングしてしまったため、髪の毛をゲロでトリートメントしてしまった者(通称:ゲロトリ)など、あろうことか20代前半のうら若き乙女たちも数々の醜態を晒していた。女子ですらこのような有様であるので、男子に至っては説明の必要はないであろう。 そんな地獄絵図を何度か経験した上での我々の主催であったため、だいたいの事件は想定できていたし、それらの対処についても準備万端、迅速な対応をとることができた。 が、1件だけ、誰も想定し得ない事件が起こってしまった。その現場を目撃した数名の男たちは、あまりの事態に口を開けてしばらく停止してしまったほどである。 その事件の犯人は、「将軍」と呼ばれていた、我々1コ上の代の先輩である(4年生が後輩をもてなす会なのに、なぜか先輩が混入している事態も、よく考えるとおかしいが)。将軍さんは、なぜか果敢にもOBとして単身園遊会にぶっ込んできた。この時点で、変わり者であることが想像できる。将軍さんは、アルティ界では100%「ハルオ」で通っているわしのことを、最初から最後まで「ヨシタカ君」と呼んでいた点からしても、やはり変わり者である。 将軍さんは、唯一のOBであったので、それはそれはもてなされた。どこに行っても飲まされるターゲットになったし、モリンボお得意のゲーム飲みにもしっかり参加されていたため、未知数のアルコール量を摂取されていた。しかし飲んでいる時は非常にご機嫌であり、そのテンションは夜が明けるまでずっと落ちることはないのではないかと思われた。 基本的に園遊会にはタイムリミットはなく、夜が明けるまで飲み続け、翌朝11:00頃に下山する。なので途中で朽ち果てていく者は寝部屋に叩き込まれてゆくものの、卒業する4年生を中心に、多くの者が徹夜していた。 確か、午前3時くらいまでは、わしは将軍さんの存在を認識していた。屋外に飯盒炊爨(はんごうすいさん)ができるスペースがあり、そこで水炊きなどして火にあたりながら語っていた気がする。(話はそれるが、その場に同期の塩という女がそれはまたグデングデンに酔っぱらっており、名前が挙げられた全てのドラゴンボールのキャラクターを演じてくれていた。案の定彼女はその後寝部屋に投入されたが、朝目覚めてもグチャグチャな泥酔状態であった。何度も道中のトイレを散らかし回した揚句、帰宅後2日くらいピクリとも動けなくなったという。) そしてある時、今まであれだけテンションの高かった将軍さんの気配が全く無くなった。少し不安にはなったものの、まぁ先輩だし、自ら寝部屋に行ったのだろうと、特に姿を探すことはしなかった。 その後、夜も明けたくらいでわしは仮眠をとったかそのまま徹夜したかはあまり覚えていないが、なんだかんだでチェックアウトのAM11:00が近づいていた。 ここは山奥のキャンプ場であるので、基本的に全員車で来る。なので、帰りの配車を決めなければならなかった。 そこで気付いた。 将軍さんがいない。 我々は先輩を探した。あれだけ泥酔していた上に、夜は完全に漆黒に包まれるため、迷子になってしまったのではないかと非常に焦った。地理的に、迷子というより遭難になってしまう。最悪の場合、もしかしたら…。 あらゆる所を探して回ったが、どこにもいなかった。皆が途方に暮れたその時、一ヶ所だけ探していない場所があることを思い出した。 「開かずのトイレ」 キャンプ場のような場所であったので、トイレはコテージから少し離れた建物にあった。そしてその建物にはトイレがあったのだが、そういえば片方は『使用禁止』となっていた。 まさか。 ダメもとでトイレへと向かった。前見た時には完全に閉まっていた『使用禁止』のトイレの扉がかすかに開いていたが、何かに引っかかって開けることができない。全く生きものの気配はしないものの、そっとその隙間から中を除いてみた。 すると。 完全に生命活動を停止した将軍さんが、洋式便器にお座りになっていた。そして、明日のジョーのエンディングの如く、ぐったりとうなだれていた。 探しに来た一同はひとまずホッとするとともに、将軍さんの救出活動に入った。いくら外から呼んでも微動だにしなかったため、強引に押し入ることにした。扉は将軍さんの足にひっかかっていたみたいだが、少し押すとすぐに開けることができた。 まず先に突入したドリンボが、悲鳴をあげた。 蛇にでも噛まれたか!!?と思ってわしも急いで中に入ると、そこには信じ難い光景が広がっていた。 人糞が、いっぱい地面に落ちていた。 !!!!!!??????なぜ!!? だって将軍さんは、便器に座っているではないか!!!?????? 想像すると、泣けてきた。あまりに泥酔した将軍さんは便意をもよおしたため、トイレに駆け込んだのであろう。しかし誰かが使用中であったためしばらく外で待っていたのだが、あまりの泥酔のため肛門のコントロールを失ってしまい、「もうだめぽ!!」というところで『使用禁止』のトイレに駆けこんだのであろう。しかし理性に反して肛門は本能に従順であり、ズボンを下ろしている間にスパークしてしまったに違いない。そしてそこまではなんとか理性を保っていた将軍さんもそれをスイッチに意識がブチ飛んでしまい、そのまま崩れるように洋式便器に倒れ込み、そのままお亡くなりになったのであろう。 涙が出てくるストーリーである。どれだけ苦しかったであろうか、想像に難い。 生気を失った将軍さんはまるで物体が運ばれるように車に押し込まれ、本人の意思とは全く関係なく家路に着きましたとさ。 |
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2011 01,17 17:16 |
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車は、文明の象徴であり、今の時代では誰にも欠かすことのできないものである。しかし、便利である一方で、使い方を誤ると人間すら簡単に傷つけてしまう恐ろしい凶器となってしまう。 わしは、自分は絶対に大丈夫と思っていたが、遂にその慢心が祟ってしまった。 人身事故を起こしてしまった。 とある休日、鬼畜プレイマニアことゲヴォさんが茅ヶ崎の我が家に遊びにやってきた。夜になり、彼を茅ヶ崎駅に送りつつ夕飯を食べようという話になった。うちから茅ヶ崎駅までは徒歩20分かかり、できれば何かしらの文明に頼りたいところであった。しかし、我が家には自転車は一台しかなかった。 我々は考えた。どうにか楽して茅ヶ崎駅にたどり着く方法はないものか、と。 ふと部屋を見渡してみると、スケボーが目に入った。 これだ!!!わしは閃いた。 ゲヴォに自転車を運転させ、わしはスケボーに乗って駅まで行けば、帰りはわしが自転車に乗りつつスケボーを積んで帰ればよいだけなので、全てのことがうまく運ぶ。完璧なプランであった。 そうしてゲヴォ/自転車、わし/スケボーで駅へと向かった。 最初は2人並走していたのだが、出発して3分すると思いのほかスケボーは疲れることが判明した。わしは考えた。そうだ、わしがスケボーに乗ったまま、ゲヴォの乗る自転車につかまれば全く問題ないではないか。早速トライした。 完璧であった。 動力が勝手に提供されるスケボーに乗ることは、この上なく楽しかった。おいて行かれそうになったら自転車に捕まり、勢いがついたら滑走を楽しみ、また止まりそうになったら自転車につかまる。 楽しすぎた。ただ自転車をこいでいるだけのゲヴォを尻目に1人で楽しんでいると、突然ゲヴォは自転車を止めた。 ゲヴォ「俺にもやらせてくれよ」 別に、交代することに何の抵抗もなかったし、自分がやって何の危険も感じなかったし、何の悪意もなく交代した。 そして、自転車に乗ったわしは、ゆっくりこぎ始めた。ゲヴォは、ゲヴォなりにスケボーに乗っていた。その様を見たとき、確かに「この男こんな低速なのに腰が引けてやがる」とチラッと思った。そう思った瞬間に、やめておけばよかったのだ。まさか、あんなことになるなんて…。 ゲヴォもそろそろスケボーに慣れたであろう頃合いを見計らって、わしは自転車の速度を徐々にあげていった。最初にわしが乗っていた時には到底及ばない速度であるが、ゲヴォが後ろでヒーヒー言っているのが聞こえた。いい加減気を遣うのがめんどくさくなってきたのでわしはそれを聞こえないことにして、そのまま通常の走行速度くらいまで速度をあげた。 するとその時。 ガガガガガガッ!!!という音と共に、自転車の後輪に尋常でないブレーキがかかった。そして、猛スピードでスケボーが自転車を追い抜かして民家の壁に激突した。 わし:「何が起こった!!!!???」 と背後を振り返ってみると、なんとゲヴォがわしの乗ったマウンテンバイクの、よりによってむき出しになった後輪部分に袈裟がけにぶら下がっており、その状態で5mくらい引きずられていた。 なぜ!!? なぜそんな轢かれ方が可能なのだ!!!!??? どう考えてもありえない現象である。自転車とスケボーは並走しており、わしがまっすぐ走っている限りその位置関係がクロスすることはありえない。そして、スケボーが急加速して自転車を抜かしていった状況を考えると、彼は何かの拍子に危険を察知して後ろ向きにスケボーから飛び降りたことが予測される。しかし神が彼に運動神経という要素をほんのわずかも与えなかったおかげで、彼は自転車につかまったままスケボーを蹴り出したのであろう。自転車のサドル部分を片手で掴んだままフライングボディープレスの如く宙をを舞った彼の肉体は、地面に着地することなく、走行するマウンテンバイクのタイヤへ吸い込まれていった。そうやって考え得る最大のダメージを自らの手で自らの肉体に加えたのだ。まさに自殺行為的なダイビングである。 そんな大事故が起きた後なので、さすがのわしもゲヴォを心配し、大丈夫かと声を掛けてあげたら、 ゲヴォ:「大丈夫だよっ◎ふぅ、危なかったねっ◎」 と矢継ぎ早に返事が返ってきたが、その顔面は完全に黄泉の国を見学なさった後の表情をしていらっしゃった。 幸いなことに彼の体は大爆毛に覆われていたため怪我は一切なかったのだが、みなさんもふとしたことから大惨事を招く可能性は十分あるのだということを再度思い出していただきたい。 |
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2010 12,03 21:29 |
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わしはアルティメットを始めて8年目になるが、学生の頃からずっとアメリカを目標にしてきた。
目標というより、夢。 夢というより、非現実的な世界。 アメリカと漠然と言ってしまったが、特にコロラド大学Mamabirdを最も注目してきた(我らが華絵門はコロラド大学に留学し、アルティチームにも所属したことがあるという奇跡)。今でこそメンバーは入れ替わってしまって自分が好きだった頃の面影は無いが、2005年頃のMamabirdはそれはそれはスター軍団であった。 リヒター アダムチキンサイモン ジョリアン マーティン そして、 ボゥ。 特にボゥのプレーはアルティを始めたてのわしには刺激的だった。高すぎるキャッチ、速すぎる足、そして下手すぎるスロー。 Theアメリカであった。 日本のアルティと違いスケールのでかいアメリカのアルティ界において、彼は常に別格であった。アメリカの暴力すなわち世界の暴力であった。 毎大会で彼が暴力的なプレーをする姿は遠く日本のわしの目にも映像という形で届いていた。 圧倒的なスケールで縦横無尽に敵を蹴散らし尽くす彼のプレーは、本当に圧倒的であった。 わしは今日もボゥの暴力プレーを探し求めていた。 そんな時、信じられない記事がわしの目に飛び込んできた。 「ボゥが会社を設立しました。その名も、Beau's Book。」 !!!!!!!!!????? ボゥが本の貿易でも始めたのか!?? 更に詳しく調べてみると、以下のページにたどり着いた。 http://www.beausbooks.com/ あれ、絵本ばかり?? どこにボゥの面影が????? 何の気なしに絵本の作者を見てみると、 「written by ボゥ」 暴力の帝王ボゥが、子供向けの絵本書いてるーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!! 今月中には我が家に全ての絵本が届くことでしょう。 |
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2010 11,24 18:00 |
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写真アップしました!
左のリンクから見てくださいな。 ・・・楽しかったなぁ、ぐすん (名前間違い結構あるっぽいんですが許してください) |
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